文政九年一一月一三日の、評定所における第一回目の吟味内容が、もっとも基本的論点を示しているので、要点を抜書きしてみる。
舟木村の主張は次のとおりである。
「相手中之台村ニ字清水谷と申す出水これ有り、舟木村より味庄村・真名村・国府関村まで右の出水ニて御田地相続仕り来り候所、当年ニ限り、中ノ台村役人、上野村役人馴合(なれあ)いニて、右出水私ども村方えハ一滴も落水これ無く、尤(もっとも)、その節掛合をなし候えども、右二か村馴合いの事故(ことゆえ)、不当の答ニてその形差置きがたく、余儀(よぎ)無く四ケ村惣代罷出(まかりで)出訴奉り候。何卒(なにとぞ)、右弐ケ村相手の者ども御吟味、その上往古通り舟木村外三ケ村えも水引入れ、御田地相続相成り候様願上げ奉り候」
一方、中之台村の言い分は次のとおりである。
「私ども村方出水の儀ハ、往古より上野村へ引入れ、舟木村え引入れ候儀ハこれ無く候。右舟木村え引入れ候ハ、字(あざ)金くそ谷の出水ハ引入候ニ相違御座無く候。然る所、此度四ケ村馴合いニて両出水引入れ候巧(たくみ)ニ御座候。いったい私村高六拾三石、家数七軒、小村と見掠(みかす)め候て、右出訴奉り候。(後略)
このように、両者の主張は完全にくい違っている。清水谷か金くそ谷かが論点となるのであるが、舟木村側は金くそ谷の出水を問題にしていない。多分、水量が少なかったのであろう。中之台村の「小村と見掠め候て」云々ということばは、後々まで吟味役人の心証に強い影響を与えている。
その後、絵図面による吟味が行なわれたが、両村の絵図は著しく異っていて、しかも舟木村側の絵図面作成に当たり、中之台村役人の立合いがなかったことがわかり、舟木側不利のまま再吟味となった。
一一月一八日、留役(とめやく)中川又右衛門懸りで吟味が行なわれた。先ず、清水谷出水を舟木村へ引入れた証拠となる書付の提出を命じられたが、舟木村に証拠なし。同様に、中之台村側にも、清水谷出水を舟木村外三か村に送っていない、という証拠なし。
次に、清水谷からの水路について、糺(ただ)された。舟木村では、「往古より悪用(あくよう)水とも田順(たじゅん)に落し来り申し候」と答え、上野村では、「往古より水路これ有り、何十年ともなく引来り申し候」と答えている。吟味方役人は、引水の証拠もなく、水路もないのに訴え出るとは「御上をあなどる不届(ふとどき)の致し方」と怒り、舟木村に極めて不利な情勢となった。ここで、中之台・上野両村は勝訴とみて喜悦し、舟木村側では敗訴かと一同落胆したが、名主治兵衛だけは冷静沈着、知力と気力をふりしぼって反論している。
中之台村から上野村へ引水している手樋は、二〇年前、文化三年寅年、「舟木村祐司、上野村当名主林蔵養父茂八と申す者組合い候て、右場所え水車を仕立て候節、右水車え引入れ候水路を掘り立て、尤(もっとも)、用水入用の時節ハ、右水車相止め申すべしとて、二ケ村相談の上掘り立て申し候」ものであり、その後、御上様(おかみさま)から厳重な御触があって、一八年前水車は取払ったが、新水路の形はそのまま残ってしまったものである。たまたま、当年干魃(かんばつ)の為、両村が馴合い、上野村へ堀形から続けて新手樋を掘り、用水を残らず上野村へ引いてしまった。祐司は存生しているので、証人として御糺願いたいと主張し、聞入れられ、再吟味となった。
一一月二一日、絵図面を中心とした中川又右衛門の吟味があったが、舟木村の主張はほとんど取上げられず、中之台村を小村と見掠めた無理難題として、舟木村が一方的に取調べられた。中之台・上野の両村が、その村内に「水路掘立て候とも、川を掘上げ候とも」それは勝手であり、舟木村から云々するいわれはない。清水谷の出水は、中之台地内の出水であるから、中之台村役人の存寄(ぞんじより)で処分してよい。大体、その方(治兵衛)は、「中之台村出水田順に落とし来り候などと申立て候得ども、用水田順に落し候用水ハ天下ニこれ無く候。兎角、其方儀ハ不法申し募り、右出水引取り候巧(たくみ)に相見え候」とまできめつけられ、更に、これで恐れ入って訴訟を引下げるか、御奉行の裁許をあくまで受けるか、二つに一つ返答せよ、と迫られた。舟木村名主治兵衛は、それでは四か村田地の相続ができないとして、必死に歎願したが一向に聞き入れられず、漸く日延べ再吟味が許されて引き下がった。中之台・上野両村の者どもは、これで勝訴とみて、その夜祝杯をあげている。一方、治兵衛は、「一件不出来ニも相成り候ハヾ、国許村々え何と申訳け致すべきや、十一月九日着致し、それより一ばんにても実ニねむり候夜これ無く候」と日記に綴っている。
この間、一一月二四日、舟木村祐司が江戸に着いたが、着届けを出さず、病気ということにして本所石原へ隠してしまった。裁判が舟木村外三か村へ極めて不利な状況にあるとき、中之台から上野への水路が、当年急いで掘られたものであることを証言する重要人物を、今差出してもし取上げてもらえなかったら、敗訴は決定的なものになるとみた治兵衛の才覚であった。一一月二七日、治兵衛は持病の癪(しゃく)が起こり、日延べを願って裁判は中断された。訴答一同帰村して正月を迎えた。国許で何回か和談についての掛合いがなされたようであるが記録は見当たらない。中之台村絶対有利な状況において、和談に応ずる必要がなかったのである。
文政一〇年(一八二七)三月、訴答一同再び出府し、七日に着届けを提出した。三月一六日、評定所より、呼出しがあり、早速国許で和談がどのように進められたかを尋ねられた。治兵衛は、帰村中、扱人を頼み種々掛合いに及んだところ、中之台村は内済熟談する意向であったが、上野村が承知せず、遂に破談となった旨を答えている。それより吟味が再開され、舟木村側証人仙右衛門が、中之台村と上野村の間には水路がなかったこと、元々、上野村は小山谷の水を引いていたが、近年その水が枯れてしまったので、中之台村と馴合い、清水沢の水を引いたことなど証言したが、全然取り上げてもらえなかった。留役中川又右衛門は治兵衛に対し、中之台村へ無心し水を少々分けてもらうこと、その水を田順に落としてはならないことを強く申渡している。事ここに至っては治兵衛も観念し、論所より少し下流の橋元から分水すれば田地に支障がないので、中之台村に無心し、それで内熟する旨答えて一九日まで日延べを願った。
三月一八日、舟木村より相手二か村へ掛合いに及んだ。扱人は、宿の主人外一人である。ところが、中之台・上野両村は、裁判の経過が有利なことに気をゆるし、「隣村の好身ニもこれ有り候間、手桶ニ一ぱいぐらいハ差上げ申すべし」と失言してしまった。この、手桶一ぱいが、舟木村に逆転の機会を与えてしまうのである。三月二九日呼出し、「手桶に一ぱいぐらいは遣すべし」という中之台・上野両村の言い分は、中川又右衛門をかんかんに怒らせてしまった。上野村名主林蔵も御糺の厳しさに恐入り、再度日延べを願って熟談することとなった。この日は、舟木村方は一件勝訴とみて大いに喜び合ったが、名主治兵衛だけは、「林蔵不調法(ぶちょうほう)」によるものであり、「用水の御利解」ではないとして、一同を強く戒しめている。
四月一日、上野村林蔵が上総屋弥吉と同伴で、舟木村方宿へ来て「清水沢の用水は、一か年に一か月半下村へ落水する」と提案した。しかし、一か月半の落水では、とても四か村田地の養水(やしないみず)にはならない。「手桶一ぱいぐらいの水」といった考えでは内済できないとして破談となった。
四月五日、評定所より呼出し。留役中川又右衛門は、毎度日延べを願いながら、一向に和談が成立しないので、痛く立腹していた。そこで、舟木村方に対し、一か月半の分水を今一日もふやしてもらって内済するか、それとも裁許を受けるか、と再び二者択一を強く迫った。
舟木村方は、現状では内済不可能であるから、御裁許を受けることもやむを得ない、と答えたため、中川又右衛門は、「座舗(ざしき)けたて引取り申し候」というありさまであった。日記は、四月六日付け、村の重立(おもだち)に送った悲愴な報告書で終っている。「追って呼出しの節ハ、御前御吟味の上、右論所御見分の上、御裁許ニ相成り候や、亦ハ手がねニも相成り候や、最早中川又右衛門様も御吟味詰りニ相成り、此上ニハ吟味もこれ無き様子ニ御座候間、右申し上げ候通り、御裁許か手がねの弐ツ一ツに相定り候様子ニ御座候」この文中の手がねとは手鎖のことであり、てじょうともいった。判決が下されるか、無法な訴えをしたかどにより手がねを掛けられるか、治兵衛の心中は悲愴なものであった。以後の吟味や交渉のことはわからない。しかし、強く和睦を申しつけられ、近郷一帯の名主どもが噯人(あつかいにん)に立ち、文政一〇年閏六月二日、済口証文が差出された。