和談の成立

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 この裁判は、両者に決定的証拠がなく、いわゆる吟味詰りとなるほどのむすがしい争論であった。舟木村外三か村方も、中之台村・上野村方も一歩も退かずに反論応酬を繰返し、しかもエキサイトした両者のことば尻が奉行所役人の心証を害したりして、終始荒れ模様であった。両者の主張にはそれぞれ条理があり、一方が嘘の供述をしているとは考えられない。両者とも必死であり、争いの根本は用水の絶対量の不足にあったと考えられる。そのことは、和談の諸条件でも知ることができる。
 一、清水谷出水は僅かで、舟木・味庄・国府関・真名四か村二千石余の用水としては到底不足であるから、永久の処置として、山之郷村野谷に適当な場所を見立て、早速新溜井(ためい)を仕立てる。
 二、清水谷出水は、上野村への流水で、水量も少ないが、下村々が難渋しているので、毎月九日・一九日・二九日の三日宛、上野村地内において筧を掛け、舟木村に落とす。
 これは、舟木村外三か村にきわめて厳しい内済証文(6)である。以前に、上野村で提示した一年に一か月半の流水よりも少なくなっている。しかも、山之郷野谷に新溜井がつくられるまでという条件がつけられていた。それだけに、この水論の中裁はむずかしかったとみえ、噯(あつかい)人の数も多く、桜井・力丸・国府里・古都辺・奈良・山根・金剛地・皿木・長柄山・六地蔵・山之郷・道脇寺以上一二か村の名主どもが連印している。僅かな量の水を争って深刻な訴訟となったが、基本的な事柄は何んにも解決されていない。後に山之郷地内に溜井はつくられたが、依然として水不足は続き、干害に悩まされるのである。

舟木村外三カ村と中之台村外一カ村の用水出入済証文(上野区有文書)