この日記の一冊は、「御吟味御用人方江掛合日記」と表紙に書いてある。御吟味はわかるが、御用人方江掛合うとはどんなことか。この用水出入の一方の主役は、舟木村名主治兵衛である。この人物は、裁判が不利なときも冷静に反論をこころみ、有利な時も客観的に次の段階を予測して一同の心を引締めている。このすぐれた人物が、自分の地頭市岡左膳屋敷への出入りを差止められ、この訴訟において四か村代表となることを許されていないのである。訴訟人の一人である味庄村名主浅右衛門から市岡左膳宛歎願書が提出されたが、市岡家用人から拒否されてしまった。そこで治兵衛は、浅右衛門に代表となってくれるよう頼むのであるが、評定所で堂々と発言できるのは治兵衛だけであるとして承引しない。治兵衛は、「是非無く我等罷り出、御評定所御吟味請け奉り候」と日記に記している。地頭の気嫌を損じてはならないと考えた治兵衛は、文政九年一一月一四日夕刻、訴訟で多忙な中を地頭用所へ出頭したが、市岡家用人から冷たく扱われ、日記の中に次のように書き記している。
「殊の外御立腹ニて、訳け合いもこれ無く、其方の取次ぎ決して致さず候間、勝手ニ致すべきの旨仰せ渡され。それより程相詑び候得ども、取用いこれ無く、致方無く引取申し候」
つまり、立腹している理由がわからないのである。そこで、同じく訴訟方の真名村地頭宅間与兵衛家用人木村茂左衛門その他を頼り、市岡家への取りなしをしてもらうのであるが、市岡家用人清水八市は、何かと言いのがれて、治兵衛を許そうとしない。治兵衛は、夜な夜な菓子折を持って、四か村地頭の用人に頼み回るのである。一一月一九日夕刻、治兵衛は漸く市岡家用人から事の真相を聞くことができた。「其方身分、四ケ村より数度相願い候ニ取上げこれ無きハ何とも気の毒、猶また其方義迷惑ニこれ有るべしと存じ候得ども、何んとも致方もこれ無く候。我等察し候ハ、御殿様御義、近日ニ御役替の御沙汰もこれ有り、内々ニて承知致し候。其方一件惣代差出し候て、右御役替の御差障(おさしさわ)りニも相成るべきもはかり難く、これに依り御取上げ」がなかったのである。訴訟は不利、地頭からは見放された治兵衛の心痛は、「一ばんにても実ニねむり候夜もこれ無く候」と日記に書きとどめられている。
本来ならば、知行所百姓と一体となり、訴訟を有利に導くべき地頭がこの有様では勝訴の見込みはない。文政期の旗本は、既に有利な役職に就かない限り権威も財力もなかった。役職に就くためには、知行所百姓まで見捨てる非情さが生じたのである。知行所名主が訴訟の惣代となり、裁判が縺(もつ)れたとき、上司の不興を買って役職に就けなくなることを恐れた地頭の小心翼々たる様に反し、内外ともに困難な状況にありながら、強固な意志と、鋭い洞察力と、冷静な判断力を発揮した治兵衛に、土に生きる者のたくましさを感じさせられる。