近世の農村では、肥料採取源・用水源として、山林原野は欠くことのできないものであった。もちろん、建築用材・土木用材・薪炭の供給源としても、早くから活用されていた。しかし、江戸時代における石高制が示すように、知行の基礎はあくまで田畑であり、初期においては、林野に対する支配者の関心は薄く、田畑の生産を高めるための間接的な関心に過ぎなかった。
幕藩体制が整うとともに、江戸をはじめ城下町・宿駅に建築ブームが起こり、その用材確保のため「御林(おはやし)」の設定が広範に行なわれ、領主の山林に対する関心が高まってきた。一方、新田開発が進み、従来、農民が自由に利用していた林野は著しく減少した。そのため、農民の必需品である建築用材・薪炭材をはじめ、肥料や飼料としての柴草の採取が困難となり、寛文期(一六六一―七二)を境として全国各地に山論が続発するに至った。
争論の調停に当たる者は、領主・代官・近隣の村役人などであったが、そこで和解が成立しないときは、江戸評定所に出訴した。
郷土長柄は、山林と平地の接点に位置しているため、林野利用に関する争いが特に多いように思える。それらは、山論・秣場論・地境論・入会論などといわれ、多くの史料を残している。