古代においては、山林原野に対する支配意識や所有意識はなかったと考える。林野に対する関心は、荘園制度の発達とともに芽生え、次第に領主の支配下に置かれるようになった。最初の支配は、用水源としての水源涵養林を定め、農民の林野利用を制限することから始まった。古島敏雄氏の『日本農業史』には、筑前国怡土荘における永仁二年(一二九四)の水源涵養林に対する農民の立入り禁止、また、同国宗像神社領における正和二年(一三一三)の百姓の採草を許す山と立入り禁止の水源林の区別などが、史料として残された林野支配の最初であろうとして例示されている。このように、荘園内にある林野も単なる無地主でなくなっている。それは、直接荘園領主の支配に属するものもあれば、辺境の地では名主(みょうしゅ)の支配に属していたものもあった。このような支配の発生とともに、農民の採草も、領主に対する年貢納入の見返りとして認められるものとなって来た。
中世にはいると、林野に対する農民の利用度が高まってきた反面、荘園領主や地頭の領主権も強まり、林野も貢租徴収の対象となってきた。これらは、貨幣で納められることもあり山銭とか山地子銭といわれた。山林は、農業生産の一条件であるとともに、木材などの林産物は古くから都市へ運ばれていた。良林をもつ領主は、山番を置き、植林もさせるようになった。農民が木材搬出の労役に狩り出されたのは、山林利用の代償としてである。
鎌倉時代には既に、領主のために伐採した余材を商人に売るようになった。承久(一二一九―二二)の頃には、材木の問丸が発生している。(中村吉治『日本経済史』)戦国大名は、森林資源の保護に熱心であった。重要な森林を直轄地として伐採を禁止し、百姓に下草刈りだけを許すなど、農民の利用が制限されてくる。積極的な植林も、戦国大名により行なわれ始めた。直轄林を「御林(おはやし)」と称したのは、甲斐の武田氏であり、この名称は近世になっても広く用いられている。入会山に番人を置いて、薪炭を採る者から口銭を徴収し始めたのも武田氏である。山奉行・山守という職制も設けられるようになった。
織豊期から江戸時代初期になると、入会(いりあい)という林野利用形態が一般化している。しかし、それは旧来の慣行であり、江戸時代中期以降とは若干異るようである。領主の知行地というのは、高をうけた耕地であり、領域の境界も明白でない。領主としては、建築や土木用材の給源として、農民にとっては、生活資材・肥料・馬草の給源として重要な山林も、制度的には明白な規定がないまま、従来の慣行から無干渉容認という形で利用が許されていた。それは、名主(みょうしゅ)層の私的利用に近い形のものであり、下層農民の山林利用は、名主との従属関係において許されるものであった。
森林・原野の広大であった頃は、農民たちは自由に木や草を採ることができたが、城下町の興隆につれて木材の需要が激増する近世初期からは、その様相が一変してくる。領主は用材を確保するため御林を設定して農民を締め出す。新田開発が進むにつれて林野地積は減少する。そのため、木草採取に不便を来たし、山論・境論・秣場論・野論などといわれる入会争議が続発するのである。入会論争が繰返されている間に、入会地の範囲や入会権に対する観念が次第に明確になって来た。そして、有権者の間で利用上の約束や証文が取りかわされるようになった。当時の入会慣行の中で最も一般的であった村中入会(その村の住民が立入って、共同で毛上を採取する村持山)に属する林野は、明治の民法では、「共有の性質を有する入会権」と規定され、昔は村の所有であったが、今は、入会権者の共有地の上に成立する入会権と認められた。