郷土は、山林原野に恵まれていたので刈敷に不足はないと考えられ勝ちであるが、恵まれているのは長柄地区だけで、日吉・水上地区の農民は、長柄地区や養老地区(現市原市)へ入会って採草していた。江戸時代の農業生産では、肥草は欠くことができない。そこで、距離の遠近を問わず、適当な採草地をもたない村々は、わが長柄地区に入会地をもっていた。『茂原市史』に、自村内に適当な採草地をもたない山崎・押日・庄吉・芦網・国府関・真名・中之台・味庄・舟木・上野の一〇か村が、山之郷村へ山年貢を納め、七里野・大とかり野・大野で夏草・冬茅とも刈取っていたとある。このうち、山崎・押日両村が代表となり、山之郷村を相手取り、元禄一一年(一六九八)に訴訟を起こしている。訴文によれば、草刈場へ、地元山之郷村がだんだん植林して草刈場が狹められ難儀している。このことを、山之郷村地頭所へ訴え出たが取上げてくれないので、やむを得ず御奉行所へ御訴訟申上げる。というものである。同年一〇月六日の裁許状によれば、「山之郷村ノ者内山続きに新林これを致すに付き、入会山せばまり候由申し、糺明を遂げ候処、大野内山境ハ木立これ有り、これを限り入会野境慥(たし)かに相見条、前々の如く拾ケ村の者野手これを出し、大野え入会い、向後境を越え山之郷村内山え一切入るべからず」となっている。これは、山崎村外九か村の敗訴である。このように、山之郷村は林野が多く、家数が少なかったので、遠く山崎や押日の方からも入り込まれていたのである。
次に、郷土の山論を、史料の古い順に述べてみる。