元禄裁許状によれば、第一回目の争論は承応年中に起こっている。「承応年中、山根村より牓示(ぼうじ)これを立てるニ付き、訴論ニ及ぶ処、五郷組合の者取扱い、野銭これを出し刈来り候。」となっている。自由に刈取っていたものが、承応年中より野銭を支払うようになった。ところが、三〇数年後の元禄二年に至り、山根村では、国府里村の草刈場を道脇寺野に限定しようとした。当然国府里村では江戸評定所へ出訴した。判決が下されたのは、元禄四年二月であるから、大分長い裁判であった。裁判期間の長い割りに裁許状は至って簡単である。承応年中の五郷組取扱証文の文面に「野銭五百文これを出し入会うべき由これを載せ、道脇寺野とこれ有る文言相見えざる上ハ、残らず入会たる儀」紛れなしとして、国府里村の御子屋台入会権が再確認された。裁許状の裏面には、絵図面に墨筋を引き押印して、入会地が明確に示されている。同じ場所で、同じような争論を二度と繰返えさないと誓っていても、宿命の場所は何回でも争点となる。四七年後の元文二年、山根村では、国府里村百姓の御子屋台野場への出入りを差留めた。これに対し、国府里村名主金兵衛は、入会権を守るため奉行所に出訴した。元文の争論は、単に入会権の問題だけでなく、他の要素や感情がからみ複雑になっている。一方的になるが、国府里村訴文の要旨を掲げてみる。
元禄4年 国府里村と山根村 御子屋台野論裁許状(国府里区有文書)
秣場論裁許状絵図(国府里区有)
一、山根村の者共は、元禄の御裁許を破り、元文二年二月二四日から、国府里村の百姓共が御子屋台野場に立入ることを差留めました。元禄の御裁許状がありますので、無理にも野に入り秣を刈取ってよいのですが、相手山根村は高千石、多勢、その上所々に野番を立て、伏勢を置き、国府里村の者が罷越せば打擲(ちょうちゃく)する手筈になっていると聞いています。このようなわけで、無理に押通れば闘争に及び怪我(けが)人も出て、御地頭様にも迷惑が及ぶと考え、差控えておりました。
一、御子屋台芝地の新田開発願を出した者があり、御代官原新六郎様が見分(けんぶん)の役人を派遣しておられます。万一、新田開発が許可されますと、野元山根村はもちろん野子作国府里村ともに秣・薪に飢え、百姓一同成り立たなくなりますので、御代官原新六郎様に新田開発防止のことを願上げ、七月初めに帰村いたしました。
ところが、山根村では同月一〇日御勘定様へも新田開発防止のお願いをしようと申込んできました。国府里村としては、御代官所へ願出てまだ日も経たずに、またしても御勘定所へ出願することは恐れ多いし、また出費もかさみ過ぎるので、暫く見合せるよう返答しました。然るに、山根村では当村に一言の相談もなく新田開発防止願いに出府してしまいました。
このことを意趣に思い、国府里村が野に入るのを差留めたものと考えられます。
一、山根村では、千代丸村が野子作でもないのに野子作と言いふらし、新田開発防止願いに同道しました。帰村後、その路用として文金三両二分を国府里村より差出すよう申してきました。その後改めて、古金で三両二分差出すよう申入れてきましたが、このような大金を口上だけで遣取(やりとり)りできないので、路用金の割合目録を書いてくるよう、度々申遣しましたが、それはできないとの返答でした。
国府里村三八〇石余りで、古金三両二分の割掛けになりますと、山根村千石、千代丸村二〇〇石余、合せて一、六〇〇石の高割りにすると、文金二三両と銀六匁になります。僅か二、三人の者が十日余り江戸に出て、このような大金を使うわけがありません。このようなことでは、困窮の百姓は、一切成り立たなくなりますので、よくよく御吟味下さるようお願い申上げます。
この訴状は、元文三年七月二一日受理され、両村代表が評定所に於て対決し、翌元文三年一月二五日に裁許状(13)が下った。吟味期間は約六か月で、比較的短い。この裁許では、国府里村の御子屋台野場への入会権は保障されたものの、他の訴趣については、総て山根村の主張が認められた。先ず、千代丸村の入会権は、寛永年中(14)の争論の際の五郷組扱証文に認められているし、今回の新田開発防止の願書にも、山根・国府里・千代丸の三か村が連印しているので、千代丸村の御子屋台芝地への入会権はあるものと判定された。第二点の、新田開発防止願いの路用金の件も、三か村高割りにするよう申渡された。これで、総てが解決したはずであるが、こじれ切った両村の間柄は、同年春の草刈りからもつれてしまった。今度は山根村から出訴している。元文三年七月一八日の裁許状(15)から両村の主張を要約してみると次のとおりである。
山根村では、「先達(せんだっ)て三ケ村入会ニ仰せ付けられ候秣場の儀、国府里村野銭差出さず、殊ニ茨・実生の木まで刈り取り候て、野場ニて干立(ほした)て薪ニ仕り候故、秣不足」の旨を申立て、国府里村では、「野銭差出し候ても山根村請取らず、却て出入(でいり)申掛け候。右野場立木ハ、秣ばかりにて立木ハこれ無く、刈干し致し候儀ハ山根村も同様ニ候。」と反論している。
秣場論裁許状写(国府里区有)
この判決は、山根村の完敗であった。「国府里村ハ三百石余ニて百姓弐拾四、五軒これ有り、山根村ハ千石程ニて百姓七拾軒余これ有り候得バ、山根村不精(ぶしょう)ニて刈後れ候儀」ときめつけられ、国府里村で刈干したため山根村の秣が不足したという主張は認められなかった。そして、「茨・実生の小木、鎌刈りの分ハ秣同意の儀ニて差留むべき様もこれ無く、相互ニ刈干し仕り候得バ何んの異論これ有る間敷(まじき)儀」として、山根村で差抑えていた国府里村の乾草を、国府里村へ引渡すよう命じ、以後「相互ニ鎌刈りの分ハ刈干し仕るべく候。尤も、鎌掛からざる分ハ、枝葉迄も国府里村一切差寄り間敷候。」と、採取の限界を明確にしている。この訴訟沙汰には、どこか山根村が意固地になっているような傾向が感じられる。一方、村内に草刈場をもたない国府里村は必死であった。
元文以降、御子屋台をめぐる両村関係は小康状態を保ち続けるのであるが、江戸幕府滅亡後の慶応四年(一八六八)に至り、またまた紛争が生じた。このときは、国府里村と千代丸村が組んで山根村を相手取り、房総知県事役所へ歎願書(16)を差出している。慶応三年八月、徳川家郡代河津伊豆守より、空地・野地・入会地を有する村で、新開を望む村は願出るよう触があった。山根・国村里・千代丸の三か村では、入会地の内、秣場を除く野地を、高に応じて開発したい旨出願したが、幕府瓦壊のため沙汰止みとなっていた。ところが、慶応四年五月三日、山根村郷用年番名主平蔵が、突然国府里・千代丸両村にやって来て、御子屋台新開発願いが治定するまで両村の採草を固く差留める旨申伝えて来たのである。「拙者の儀ハ地元の事故、勝手次第刈取り候」として、国府里・千代丸両村の立入りを禁止するのは、両村を「小村、愚眛の者共と見掠(みかす)め」筋の通らぬ所業に及んだものである。として、厳重な取調べを歎願している。この歎願書に対する房総知県事の裁定史料がないので、国府里・千代丸両村の一方的主張しかわからず公平は期しがたいが、山根村に野元村あるいは大村としての横暴さがあったことは推察できる。また、旧秩序の崩壊により古い入会権よりも地元の権利が優先したとの錯覚があったのかもしれない。
二百年以上にわたる国府里と山根の入会権の争いも、水田肥料の変北とともに消滅するのであるが、この飽くことのない野論から、近世における秣の重要性をひとしお痛感させられるものである。