5 針ケ谷村と篠網村の秣場出入

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 文政二年(一八一九)六地蔵村字がうじ谷の秣場をめぐって、針ケ谷村と篠網村の間に争論が起きた。針ケ谷村では、がうじ谷秣場の入会権の専有を主張し、また、がうじ谷に通じる馬込坂上の請畑(うけばた)を篠網村の人馬が踏荒して困ると訴え、これに対し、篠網村が反論している。この争論は、入会村同志の争いであり、野元六地蔵村は調停者となっている。針ケ谷村の文書が見つからないので、刑部村の口上書(21)から事件の概要をうかがってみたい。
 「針ケ谷村一件の相手方である篠網村名主源左衛門、刑部村名主久兵衛が申上げます。私共出入、ただ今御吟味中の秣場六か所の内、字がうじケ谷は、訴訟方(針ケ谷村)では、針ケ谷だけで刈取って来たと申立てておりますが、私共(篠網)の入会場所に相違ないことは、先の御裁許絵図面でつぶさにわかります。また、馬込坂上の針ケ谷村内野べり野庭は、篠網村の者どもが昔から通行しており、その地所内の針ケ谷村で開墾した山畑請地(一定の年貢を払い領主・地頭から借り受けた土地)を、私どもが牛馬を引いて通り、踏み荒したように申立てておりますが、これまた請地境から隔った道筋であります。殊に、山畑地と申立てている場所は、一体が無地で成木などもあり、踏み荒して御年貢上納に差支えるような場所ではありません。
 このようなわけで、御吟味中ありのままを述べてきたところ、訴訟方はだんだん返答に詰り、追々日延べを願って参りました。
 その間、両村で掛合っててほぼ和談ができかかったところで、針ケ谷村惣代重左衛門が病気となり、また、先の御掛り服部伊賀守様が御転役なされ、一同ひと先ず帰村を仰せ付けられました。
 その後、当御奉所様へ引渡しとなり、引続き召出されましたところ、今度は名主金右衛門が惣代に罷り出、御吟味中お調べに当惑し、暫く出頭いたしません。そこで、この度は私どもより御訴え申上げようと存じましたが、先般よりの出入りでことごとく難渋しておりますので差控えておりました。もちろん、出入の場所を見分していただけば、訴訟方の偽りが明白となることは必定ですが、しかし、私どもは至って貧窮であり、諸費用のかさむことは迷惑です。それに、御上様(おかみさま)に対しても恐れ多いことと考え内済したい心意でしたが、この気持につけ込み増々増長し、いろいろ謀をめぐらしているのは、私どもを侮る致し方であります。殊に、訴訟人金右衛門は、日ごろから公辺(こうへん)にかかわることを渡世同様にしており、既にこの度も小前をかき立て、その上弁説を以て御裁許の御裏書を申惑し、ただ日時を移し、私どもに不利な内熟を取結ぶ考えで縺(もつ)れがましく申立てておりますことは心外であり、迷惑至極に存じ、余儀無く御訴え申上げました。
 どうか、御慈悲を以て前書悪計を御糺明(ごきゅうめい)下さったならば、早速内熟が相叶(かな)い、一同相助り、この上は御憐情とひとえにありがたく仕合せに存じ奉ります。
 
 このような口上書が奉行所に差出されたのが、文政二年の一二月である。
 針ケ谷と篠網の争いも正保元禄のころから続いているものであり、利害の相反する村と村との争いが一度で収まった例はない。六地蔵村のがうじ谷の秣場についても同様であったが、文政の争論では、篠網村の者どもが針ケ谷内野べり野庭の請畑を踏み荒したか否かも論点となっている。この出入は裁許とならず、六地蔵・長柄山両村役人共が扱いに出て、文政三年四月に内済した。前述のものは、篠網村の口上書で、針ケ谷村の訴趣がわからない。内済証文(22)によって論点を公平にとらえてみる。
 先ず、ごうじ谷秣場の入会権について
 (1) 針ケ谷村では、往古から野手として籾八斗を年々六地蔵村へ差出しているので、六地蔵村地内の秣場は二か所とも針ケ谷村一手持ちと心得ていた。
 (2) 刑部村では、字ごうじ谷の秣場は、針ケ谷篠網初芝三か村の入会野と心得ていた。
 (3) 初芝村では、ごうじ谷に入会って草刈りをしたことはないと答えている。
これでは篠網村の主張は通らない。そこで、野手籾八斗の内、篠網村から一斗差出し、こうじ谷秣場は針ケ谷篠網両村の入会野と決めた。字物王坊は、もちろで針ケ谷一村持ちきりである。
 第二の論点である針ケ谷村内野べりにある請畑の件であるが、ここは、字栗林といい、そこに三枚の畑があり、その内二畝歩ほどの畑地を篠網村の者どもが通行し、踏み荒していたのである。従って、篠網村から針ケ谷村に詑びを入れ、毎年鐚(びた)三〇文宛を針ケ谷村へ差出し、人馬とも通行してよいことになった。
 この争いも、篠網村に非分がありそうである。旧来の慣習とはいえ、針ケ谷村で野年貢を負担しているのに、篠網村では一文も出さず草を刈っていたことになる。また、畑際を人が通ることはよくあるが、秣を積んだ馬が往復したのではたまらない。いくばくかの野手や補償銭を差出しても、まだ篠網村が有利なように受けとれる。
 この一件では、野元六地蔵村と関係なく、二つの入会村が争っていて、入会地というものの性格を物語っているようである。まだ所有権や領有権が明確でなかったころから行なわれていた山野利用の慣行が、地元村と関係なく入会権として定着した。それが、領有権や村の行政区画が明確になるに従い、地元村へ野年貢を納めるようになった。しかし、中には篠網村のように、中世そのままに無年貢で入会っていた村もあったのである。
 このように、江戸評定所あるいは領主代官の裁定をまたずに和解することを「済(すま)す」といい、その取りかわし証文を「済口(すみくち)証文」という。示談・和熟・和談・内済ということばもよく用いられている。正式に告訴した後和談が成立したときは、済口証文が一通評定所へ提出された。この証文は裁許状(判決状)同様の強制力をもっていたので、これらの書類は厳重に保管されていた。後々に争いが起きたとき、最大の証拠となったからである。
 民事裁判については、評定所ではなるべく判決を下すことを避け、和談を勧めている。山論や水論は実地検証が困難であり、地方的特性もからんでいるので判断がむずかしい。誤った判決を下したときは、村々の間にしこりを残すだけでなく、幕府に対する不信感まで培ってしまう。最良の解決は、現地の事情にくわしい近隣の村役人の調停であった。裁許状や済口証文をみると、一方的に善悪をきめつけるものは少なく、ほとんどが両者の面目を立てるよう細かく配慮されている。吟味も証拠裁判に徹し、吟味詰りとなれば新しい証拠や証人が出るまで待ち、どうしても判決が下せぬときは強引に和談させている。郷土史料で見る限り、評定所における裁きは極めて公平であったような印象を受けた。