[助郷出入]

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 助郷とは、江戸幕府が諸街道の宿場の継立(つぎたて)を援助するため、宿場周辺の農村に課した夫役(ぶやく)である。東海道をはじめ諸街道の宿場には、幕府によって定置の人馬数が定められていた。しかし、一度に大量の通行があるときは、宿場定置の人馬では足りないので、助合を近隣の村々に求めることができた。
 その後、一般・公用の旅行や荷物の運搬量が増加するに従い、宿場定置の人馬もふやされたが、それには限度があったので、これを補うため助郷制度が採用された。この制度は、元禄七年(一六九四)ころ、東海道で確立され、以後、漸次国々の街道筋に広まっていった。即ち、宿場周辺の村々を定(じょう)助郷(一―二里)、大助郷(おおすけごう)(三―五里・加助郷ともいう)に区別し、宿場の人馬継立業務に当たらせたのである。『地方凡例録』に、
 「定助郷ハ高百石ニ馬弐匹、人足弐人位の当りを以て宿場へ差出し置て勤るゆへ、高掛り物ハ免除なり。大助郷とハ、諸侯方参勤交代并ニ番衆通行等、其外にも大通り有るときは、百石に付凡そ弐匹弐人位の当りを以て呼出(よびいだ)して召仕ふことなり。」
とあり、
 「助郷村々のことは、五街道の外、国々脇往還(ワキワウカン)にも極りあることなり。」
と述べている。
 助郷は、重い年貢とともに農民を苦しめ、農村を疲弊させた。同じく『地方凡例録』に、
 「近年次第(キンネンシダイ)に助郷人馬(スケゴウニンバ)多く当り、村々困窮し、宿場の勤めハ一日なれども二里・三里もある遠き場処ハ、前日の昼よりも村方を出て其夜宿へ着き、翌日勤め夕方迄にも役を仕廻(シマ)ヘバ夜通しにも帰れども、継場(ツギバ)遠き宿にて夕七ツ半(午後五時)頃より継送(ツギオク)リ、夜に入て宿場へ帰れバ其夜は村方へ帰り難く、又止宿(シシュク)し、一日の勤に前後三日の日を潰し、農業ニ後れ、剰(アマツサ)へ二夜泊りの食物の入費(ニウヒ)多く、其上終日折返し等に遣ハるゝゆへ、途中にても食事を致し小遣銭(コズカイセン)も掛り、其日取りたる人馬銭(ニンバセン)ハ少しも残らず」

 却って足銭を出してしまうと記している。そこで、二里以上もある村々では、人馬の代りに銭を出すようになるのであるが、この人馬代銭は、問屋役人などが呑喰(のみくい)に使ってしまい、その分の人馬は、また近郷へ割当てたので、宿場に近い村々は難儀したという。その上、宿人馬は売荷などの賃銭の多いものにまわし、賃銭の安い公用のための人馬は助郷村々へかけるので、助郷村々では自然と田畑が荒れ、困窮に及び、潰百姓(つぶれびゃくしょう)も出るようになった。このことは、東海道その他の主要街道沿いの村々で特にひどかったのであるが、房総中往還と房総東浜往還の通る郷土でも、助郷夫役の過重に苦しんだことに変わりはない。