1 郷土の助合

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 郷土史料には、助郷を「助合」と書いてある。次に、その概略を述べてみる。
宝暦一一年(一七六一)の針ケ谷村差出明細帳(26)に、
 一、助合長柄山村、茂原村両村(衍か)人馬差出し申し候。
 一、御鷹方御用ニ付き諸役勤方六地蔵村出し、武士村御伝馬之儀ハ長柄山村出し、定助・大助人足馬ハ其時ニて大小御座候。
 一、御国廻り御延(巡か)見人足馬茂原村え出し候。
とある。
 享和二年(一八〇二)の刑部村村高村柄等書上帳(27)にも
 一、同国市原郡武士村え雲雀御鷹(ひばりおたか)之節助村仕リ候。百石 弐人
 一、長柄山村・六地蔵村へ助村御座候。
   人馬員数之義ハ百石弐人百石壱人節御座候。

 と述べている。両者の記述に若干の違いはあるが、巡見使回村の夫役や日光社参の夫役などは茂原村へ、普通の荷物や公用の武家の継立は長柄山村へ、鷹狩の夫役は六地蔵村へ出していたことがわかる。しかしこれは刑部・針ケ谷両村の場合であり、山根村が普通の荷物や人員の継立人足馬を茂原村へ差出していたことは、後述の争論で明らかである。その外、刑部村も埴生郡長南宿と市原郡磯ケ谷村の中継場として近村へ人馬の触当(ふれあて)をしていた記録(28)も残されている。各継場の助村(すけむら)の範囲は明らかでないが、六地蔵村が遠く内田村まで、助郷人足馬の割当てをしていたことも、後述の争論のとおりである。
 このように、六地蔵村・長柄山村・刑部村・茂原村と、比較的近接して四か所の継場があり、その内、二ないし三の継場へ助郷人馬を差出していたのであるから、農繁期にあっては耕作に支障を来すことも無理からぬことであった。
 郷土の助郷争論は、六地蔵村と内田村(市原郡)、茂原村と山根村といったように、宿場と助郷村とが遠隔の場合に起こっている。宿場に遠い村は、前述のようにあらゆる面で負担が重く、且、宿場村とのなじみも薄いので、なるべく過重な夫役を避けようとしたし、一方宿場村では、不利な荷物の継立はなるべく遠方の村々に課す傾向があったので、争論の発生する温床は十分にあった。