2 六地蔵村と内田村の争い

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 初芝の酒巻政雄家に「一件控帳」なる一冊が蔵されている。内田村と六地蔵村の助郷争論の記録である。内田村では、名主利助と金兵衛が惣代となり、助合人馬の触当が不当であるとして、六地蔵村問屋弥平次・名主三郎兵衛を相手取り、江戸評定所へ出訴した。一件控帳の記録は、享和元年(一八〇一)一一月四日から享和二年一二月一八日までで、まだ一件は落着していない。更に、田代家にこの一件裁許の請証文である「差上申一札之事」(29)が蔵されていたので、ほぼ事件の全ぼうを知ることができた。享和三年、勘定奉行石川左近将監より裁許が下され、五月四日に一札が交換されたので、足掛け三年にわたる長い争論であったことがわかる。
 六地蔵村は、房総東浜往還中継場(ひがしはまおうかんなかつぎば)として、交通上重要な位置にあった。私領・御料からの米穀の継送りだけでなく、売荷の輸送も多く、問屋が店を構え、上りは潤井戸村へ、下りは、茂原村へ輸送していた。特に忙しいのは、御城米の津出しの時期で、一松郷一三ケ村その他の御料からの米俵は、総て六地蔵村を経て江戸へ送られた。この時は、近村だけでなく、三〇か村に助合人馬を触当てた。一方、内田村は六地蔵村とは遠く離れている。交通系統も経済圏も明らかに異なる。そして、近くに牛久村があり、当然その助合を勤めていた。従って、遠い六地蔵村からの人馬触当てには不満であり、その差出しを拒否し争論となった。
 さて、一件控帳と田代家文書から、その論点を拾ってみると次のとおりである。
内田村の主張
 ○和田・田尾・山小川・内田の四か村は、六地蔵村へ助合人馬を出したことがない。
 ○近郷の長柄山村・皿木村・山之郷村・上野村・中之台村に触当(ふれあて)しないのに、なぜ遠く離れた内田村外三か村へ人馬の触当をしたのか、理解に苦しむ。
六地蔵村の反論
 ○往古よりの慣習により、内田村外三か村へも継立人馬の触当をした。
 ○長い吟味で、御年貢米津出しに難渋している。若し、内田村が御用継立を拒否したら、他の助合村々まで随心し、継立の御用が勤まらなくなる。
 この論点について、証人調べが繰返された。長柄山村外五か村では、大多喜往還の継立をしているので、六地蔵村へ助合していない旨証言した。また、一松郷名主から、御城米津出しの時期や量についても喚問している。一件控帳には、概して六地蔵村に都合のよいことが記されているが、田代家の御請証文から、裁許の結果をみると次のとおりである。
 ○六地蔵村並びに五郷組合で継立人馬が不足したときは、他の村へも百石二疋の割で触当てていたことは確かである。
 ○内田・田尾・山小川の三か村は、享保・元文・寛保の度に、六地蔵村の触当により助合人馬を差出していた。これは、六地蔵村問屋にある諸賃銭請取帳に印形を押してあることからも明らかである。
 ○内田村は、高一、六五〇石であるのに二、六〇〇石として人馬を触当てたのは、六地蔵村の者ども不埓(ふらち)である。よって、名主・問屋それぞれ科銭五貫文宛を申付ける。

 古い賃銭請取帳が証拠となって、内田・田尾・山小川の三か村も、六地蔵村の助合村であることを確認させられた。一方、六地蔵村は、内田村の高を千石ほど多くして人馬を割当てたかどにより科料をとられることとなった。
 江戸時代の民事訴訟で一方的勝訴ということは少ない。この一件も、大局的にみれば六地蔵村の勝訴であるが、内田村の顔も立ててある。また、前述の水論や山論のときと同じように、繰返し内済するよう勧めている。それでも和談が成立しないので、奉行の怒りをかい享和二年九月一五日から一二月四日まで「手がね」に処せられた。このように、権力による暴圧はあったが、証拠裁判の原則は、やはり貫かれていた。
 一件控帳を見ると、訴訟に金がかかったことがよくわかる。「五月廿一日、飛脚入用金持参」といったような記述が目立つ。国もととの連絡のためにも、飛脚はしばしば往来している。また、見舞客も多い。「五月十七日、藪村幸右衛門殿御百姓代御見舞、御樽持参」といった記事が目につく。見舞いに出府した村は、長柄山・山之郷・皿木・久保・藪・勝間・江場戸・中之台・惣社・郡本・鴇谷、上野・針ケ谷・刑部・勝間・君塚・新堀などで、中には二回、三回と出府している村もある。また、十数か村惣代の者もあれば個人的見舞客もある。持参品は酒が多いが、菓子や蕎麦(そば)というのもあった。見舞いの村々は、五郷組や近村は当然として、市原郡の村々が多い。近世は小村がそれぞれ独立していたので、現在の行政区劃とは関係なく結節的に結びついている。それにしても、市原郡惣社村や郡本村は遠隔の地で、見舞いの理由がわからない。夷隅郡江場戸村の場合も同様である。
 このようなことは、訴訟方内田村も同様であったと考えられる。訴訟とは、「長々御苦労ニ御座候。甚だ気之毒至極ニ存じ奉り候。御取扱いに成されては如何これ在るべき哉。」という見舞客のことばに代表されるように苦しいものであった。