潤井戸村の助郷争論は、郷土と直接関係ないが、六地蔵村と長柄山村が引例され、継場村の動きがわかるので略記してみたい。この文書で見る限り、継場の運営は、潤井戸村より六地蔵村や長柄山村の方が巧みであったようである。また、二街道の貨物が集中する潤井戸村の方が、郷土の両継場より遙かに多くの人馬を要し、その運営も困難であったと推察できる。一般的にいって、貨客が多ければ宿場は賑わい、財政的にも、豊かになると考えていたが、潤井戸村の場合は逆であった。
潤井戸村の訴えの趣旨は次のようなものである。
○助合村数二二ケ村、高合せて四、一六〇石余り、
○一ケ年の継立人足一一、三〇〇人余り
○先触(さきぶれ)の無い急用人馬の継立が多い。そのため、馬指二人・村役人二人・馬三匹・人足七人を昼夜定置している。
○利潤の多い商荷物(あきないにもつ)は脇往還(わきおうかん)を通ってしまう。
○助合村数二二ケ村、高合せて四、一六〇石余り、
○一ケ年の継立人足一一、三〇〇人余り
○先触(さきぶれ)の無い急用人馬の継立が多い。そのため、馬指二人・村役人二人・馬三匹・人足七人を昼夜定置している。
○利潤の多い商荷物(あきないにもつ)は脇往還(わきおうかん)を通ってしまう。
その上、助合村からの人馬は十分の一に過ぎず、ほとんど潤井戸村から人馬を出すため農事が手薄となり、利潤の多い商荷物も脇道を通ってしまうので村方は困窮してしまった。
潤井戸村は、高四七六石五斗余り、近郷無類の悪地で地窪(ぢくぼ)の場所が多く、冷水が湧き作物が稔らない。かつて家数一九〇余軒、馬八〇疋余であったが、今では家数七三軒、馬三五疋に減ってしまった。過半の田地・山林は質地にはいっているか質流れとなって、水呑同様の百姓が多くできてしまった。このようなわけであるから、助合村から平均して人馬を出すようにしてもらいたい。以上のような趣旨の訴文である。
ここで、長柄山村と六地蔵村が引合いに出されている。
「当村継場六地蔵・長柄山両村之儀ハ、御先触これ無き馬のみその村ニて立払い、すべて御先触御座候分ハ右両村助合村ニて相勤め候しきたりニこれ有り。」
これに引比べ潤井戸村で勤める人馬は格外に嵩(かさ)んでいる。
「当村継場六地蔵・長柄山両村之儀ハ、御先触これ無き馬のみその村ニて立払い、すべて御先触御座候分ハ右両村助合村ニて相勤め候しきたりニこれ有り。」
これに引比べ潤井戸村で勤める人馬は格外に嵩(かさ)んでいる。
と訴えている。これによると、六地蔵・長柄山両村は、利の薄い先触人馬(公用)は、総て助合村へ割当てていたようである。そして、利の厚い商品輸送は、宿場の両村や近郷で継立てていたので、潤井戸村のような苦境に陥ることはなかった。反面、遠隔の村々は、公用人馬の触当てに不満をもったことは当然である。
潤井戸村でも、御城米の輸送が最大の難事であったことが述べられている。毎年一一月になると千俵程の御城米が送られてくる。この米には不寝番を立てる。通例の助合人馬は、高百石に付き馬一疋人足二人であるが、このときは人足を三人に増して触当てる。その上村役人が宰領として付添わなければならない。この訴訟は、潤井戸村の人馬触当に助合村二二か村が応じないため起ったものである。結果の程は不明であるが、助郷夫役の過重は、宿場村も助合村も苦しめたことがよくうかがえるものである。