茂原村訴文の表題に、「仕来(しきたり)相破品々不法之取計致候出入」(30)とある。即ち、往古からの仕来りとなっていた助合人馬の差出しを拒否された茂原村が、山根村外一〇か村を相手取り評定所へ出訴した事件である。茂原村助合は二五か村であるが、訴えられたのは、山根・舟木・力丸・味庄・千代丸・庄吉・真名・芦網・黒戸・国府関・大登の一一か村であった。
茂原村は、安房国より江戸への往還の継場で親村と称し、助合村々へ人馬の触当をしていた。また、人馬触当のないときも、継立に必要な諸入用銭を助合村々から徴収していた。このように、往古より慣例となっていた継場人足馬の賦課を助合村々から拒否されたのである。継場村としては、その機能を果たせなくなるので、前述の潤井戸村と同様、極めて困難な事態に直面したことになる。茂原村の訴文は写しであるためか、年代が書き落とされている。しかし、評定所の提訴受理の文に、申(さる)七月廿二日とあり、勘定奉行・江戸町奉行・寺社奉行の署名があるので、その名前から文政七年(一八二四)申年と推定される。
茂原村の訴えの要旨は次のとおりである。
往古より、山根村外二四か村では、御用通行の砌(みぎり)、助合人馬を滞りなく差出して来た。特に、延享・天明両度御巡見の際は、助合村々にかかる諸入用を、茂原村も含めた二六か村で割合い出金した。
その後も、高師村外一〇か村は、よく旧例を守り、触当通りの人馬を差出し、諸入用も割合通り出金している。
然るに、相手村々は次第に人気(じんき)が悪くなり、人馬を差出さず、御城米付(つけ)送りに支障を来たしている。すぐにも訴え出て御糺(おただし)を受けべきところであるが、親村として一応申諭(もうしさと)してみた。ところが、却って助合を離れようと巧み、割合の出金もしなくなった。
その後、人馬触当をしても度々遅刻し、また、関東御取締御出役様御回村や、江戸町奉行様御組、火付盗賊御改方(31)その他随時御用御出役様御通行の節の諸入用の出銭割合も、かれこれ申張って出さなくなり、最近十か年間は、全く人馬・割合銭とも差出していない。
この度、来る酉年(文政八年)日光山御参詣(32)のための人馬触当を、助合・加助の村々に順達したが、右一一か村は人馬を差出せないとして、回状に下札(さげふだ)もつけないでまわしてしまった。このままでは、継場相続もできなくなるので御吟味を願い上げる。
この訴状は、七月二二日に受理され、九月一五日から裁判が開始されるのであるが、残念乍ら裁許状も済口証文も発見できなかった。しかし、この史料は、裁判の結果如何よりも、助合制度そのものが限界に達していたことを示している点に興味がもたれる。
茂原村の意のままに、旧例を守って助合人馬を差出しているのは、高師村・小林村など一一か村に過ぎない。箕輪村は茂原村へ近いので説得されて漸く助合を承知している。国府関村などは、「当村五郷にあり乍ら、すべて仕来り相破り、その意を得がたい。」と茂原村を慨嘆させた。五郷とは、特に親しい古くからの組合村の意である。その親しい筈の村からも離反されてしまった。安永年間の日光社参のときは、国府関・真名両村が中心となり、今回の訴訟相手一一か村で組をつくり、極めて積極的に御用を勤めてくれたのに……といった愚痴めいたことばまで、訴文の中に述べられている。御城米とは、江戸城で用いる幕府用米である。その輸送のための人馬を出さない。将軍家日光社参の人足馬触当にも応じない。このようになると、助合夫役の問題だけでなく、幕権失墜の徴候ともいえる。