親村 刑部村 大惣代名主喜代次郎
上組 小惣代 大津倉村名主与右衛門
笠森村・深沢村・高山村・大庭村・田代村・大津倉村(六か村)
中組 小惣代 針ケ谷村名主弥兵衛
金谷村・針ケ谷村・初芝村・立鳥村・鴇谷村(五か村)
下組 小惣代 徳増村名主八兵衛
長富村・徳増村・榎本村・小榎本村・桜谷村(五か村)
上組 小惣代 大津倉村名主与右衛門
笠森村・深沢村・高山村・大庭村・田代村・大津倉村(六か村)
中組 小惣代 針ケ谷村名主弥兵衛
金谷村・針ケ谷村・初芝村・立鳥村・鴇谷村(五か村)
下組 小惣代 徳増村名主八兵衛
長富村・徳増村・榎本村・小榎本村・桜谷村(五か村)
嘉永四年三月、将軍家慶は、下総の小金野で大がかりな猪鹿狩を催した。その準備は、嘉永元年から始められ、猪鹿狩御用で満岡雄太郎なる者が、市原郡五井村に出役し、小金野に放つ猪鹿や兎の生捕りを命じた。刑部村組合の村々には猪鹿はいない。しかし、猪鹿の内、何れか一匹と兎二匹の生捕りを命じられてしまった。刑部村組合では、大惣代・小惣代・村々名主が寄合い相談した。そして、猟師渡世の者を房州方面へ派遣して買い求めさせることにした。幸い、嘉永二年一月には、女鹿一匹を買うことができて、大切に囲い飼いした。しかし、この女鹿は死んでしまったので、猪鹿狩御用出役に歎願し、代りに兎八匹で勘弁してもらい、無事小金野まで運んで放した。
このように、役儀は済んだのであるが、このための諸経費は予想外にかさんでしまったのである。この諸経費の各村々への割合いのしかたで、初芝村名主栄次郎が不服を唱え、もつれが生じた。
初芝村名主栄次郎の主張は次のとおりである。
刑部村は、最寄(もより)一七か村組合の親村と唱え、御用筋のことは大惣代喜代次郎が引受け、中組小惣代弥兵衛ともども世話をし、諸入用があったときは各村々役人が立会い勘定してきた。
嘉永二年六月一日、小金原御鹿狩御用諸入用割合出金を、小惣代弥兵衛より申してきたので、遣払巨細帳(つかいばらいこさいちょう)の披見を申出たが、割合いは喜代次郎がやったので、同人方で披見するようにとのことであった。そこで、同月一〇日弥兵衛同道で喜代次郎方へ罷り越し披見を申入れたが、喜代次郎は、追って巨細帳は弥兵衛方へ渡すから、そこで見るように、との返答であった。ところが、其の後、巨細帳は見せることができないと断ってきた。巨細帳を見なくては出金できない。初芝村を小村と見掠め、勝手な割合いをされては、今後どのような取計らいをされるかわからないので、再度披見を申入れたが、彼是言い紛らして取上げてくれない。各村々役人方へ出向いて、このことについて話し合ったが、みな心得難いと心中に思っているのに、喜代次郎をはばかって泣寝入りしている。
このように、親村の喜代次郎に万端(ばんたん)任せ切りであるため、その役儀に馴れ、この上勝手儘(かってまま)な取計らい方をされては困るので出訴した。中組小惣代弥兵衛も喜代次郎に欺かれ、喜代次郎に荷担(かたん)しているので同断である。
これに対し、大惣代喜代次郎は次のように反論している。
刑部村は、一七か村寄場の親村として、郷組へ掛かる御用筋は、上組小惣代大津倉村名主与右衛門、中組小惣代針ケ谷村名主弥兵衛、下組小惣代徳増村名主八兵衛ともども取計らってきた。去々申年(嘉永元年)一〇月一三日、御鹿狩御用のにめ満岡雄太郎様が、市原郡五井村へ出役され、猪鹿その他の生捕りを仰(おおせ)渡されたときも、組郷村々役人どもと協議の上、当村猟師渡世の者を房州最寄(もより)へ遣し、買い求めさせることにした。これも、組合村々役人一同の強い希望で手配したことである。正月中、やっと手に入れた女鹿は相果て、二月に兎八匹にかえてもらい、小金野に送って御用を済ました。
右諸入用は、仕来(しきた)りどおり、小惣代立会いの上高割りにし、一同調印、六月一〇日に集金の筈であった。ところが、組内一六か村は総て出金したのに、栄次郎は巨細帳披見の上出金すると申越したので、早速本帳を見せた。ところが栄次郎は、無筆同様に付き、巨細帳を仮名書きに書き改めてくれと不当の儀を申張り、そのまま無沙汰になっていた。このままでは、諸勘定に差支えるので、一応立替えておき、七月一五日組々惣代ども出会のみぎりこのことを話したら、外村々へも影響するので出訴することに一決した。しかし、僅か鐚(びた)三貫一七五文の出銭がないというので出訴したら、初芝村を小村と見掠(みかす)めたように受け取られ、また、滞りなく出金した村々へ余分な入用を掛けることにもなるので、暫く差控えていた。
一〇月一六日、栄次郎は弥兵衛方へ赴き、右出金をするので同道してくれるよう頼み、両人で私方へ罷り越した。ところが、栄次郎はどのような考えか、右割合出金のことには触れず、却って私と弥兵衛に悪口雑言を吐き、あまつさえ、右割合出金は一切できない、こなたより出訴するなど不法を申掛け、立帰ってしまった。ほどなく、私ども相手取り池田播磨守様へ出訴し、翌一一月二〇日ごろ帰村、御奉行様の仰せであるから初芝村に同腹するよう各村々役人どもへ勧め歩いた。しかし、割合い方に疑わしい筋はないので、だれも同調する者はなかった。
一体栄次郎は、小村の者ではあるが公事(くじ)に馴れ、度々御尊判(ごそんぱん)を頂戴している。今般のことも上手に書餝(かきかざ)り出訴したものである。このような者を放置しておいては、外村々へも影響し、取締方にも差支えるので、宜しく御吟味願いたい。
以上が喜代次郎の反論であり、中組小惣代弥兵衛も略々同様のことを述べている。
この一件は、吟味中大津倉村与右衛門と小榎本村周右衛門が扱いに立ち、示談となった。
1 今般の御鹿狩諸入用割合いの儀は、刑部村はもちろん、上組・中組・下組の小惣代が立会い勘定している。
2 遣払(つかいばら)いは、喜代次郎が月々少しの前後もなく記帳してある。もっとも、外村々役人どもが立替えた分は、やや前後している場合もある。
3 双方の談合が不行届きのため訴訟となったが、熟談の結果、お互に相手方に不都合な取計らいがないことが明らかとなった。
4 御鹿狩は稀な御用筋であり、差支えがあってはならぬものである。今般は無事御用弁になったのであるから、訴訟方は割合銭を出銭する。
5 不都合な点は扱人で貰い受け内済し、今後、この一件について再び出訴しない。
6 しかし、組合村は「関東御取締御用ニ限り候儀ニこれ有り候処、鹿狩御用之儀をも右組合ニて取計候段心得違い之旨」御奉行所より御利解のあったことを、外村々へも申通して置く。
2 遣払(つかいばら)いは、喜代次郎が月々少しの前後もなく記帳してある。もっとも、外村々役人どもが立替えた分は、やや前後している場合もある。
3 双方の談合が不行届きのため訴訟となったが、熟談の結果、お互に相手方に不都合な取計らいがないことが明らかとなった。
4 御鹿狩は稀な御用筋であり、差支えがあってはならぬものである。今般は無事御用弁になったのであるから、訴訟方は割合銭を出銭する。
5 不都合な点は扱人で貰い受け内済し、今後、この一件について再び出訴しない。
6 しかし、組合村は「関東御取締御用ニ限り候儀ニこれ有り候処、鹿狩御用之儀をも右組合ニて取計候段心得違い之旨」御奉行所より御利解のあったことを、外村々へも申通して置く。
猪鹿狩諸入用出金のもつれ済口証文(針ケ谷 小倉喜代巳家蔵)
以上の趣旨の済口証文が奉行所に差出されたのは、嘉永三年六月であった。約一か年にわたる争論も、最後にはあっさりと内済している。この争論は、割合銭を出銭したが初芝村栄次郎の勝ちであろう。改革組合村は、領主の支配権を越えた関東取締出役の統治機構である。そのねらいは、あくまで治安維持にあり、一般行政については各村々名主は独立した存在である。猪鹿狩御用は警察用務ではない。それを、大惣代・小惣代だけの合議で進めたことは誤りであることを奉行所から指摘されたのである。家数七戸の小村初芝村の名主栄次郎の大奮闘であった。
一方、刑部村名主、大惣代喜代次郎は、稀な催しである猪鹿狩に、生きた獲物の上納を命じられ、その心労は大変なものであったと思う。小金野に向けての猪鹿の追込みも実施されたが、既にこの近辺に獲物はいない。遠方から買い求めた鹿には死なれている。将軍の遊びが、辺境の貧しい農村に波乱を投げかけ、思わぬ争いを生んだといえる。