文政五年(一八二二)長柄山村の佐助は、所用があって刑部村を歩いていた。ここで、大津倉村の者が馬の背に荷物を積んで新巻村方面へ急ぐのに行き合い、「賃荷物と心得、差留」めた。このことは意外と波紋を広げ、双方で出訴に及ぶ程の騒ぎとなった。
評定所出訴となっては穏かでないので、刑部村神主月岡伊予、名主五郎八、同久兵衛、同源七、新巻村名主長左衛門、武士村名主藤左衛門、新堀村の久蔵等七人が扱いに出て、調停に当たった。扱人が調査したところ、この荷物は石工の道具であった。この年、大津倉村では、姉崎村の石工を頼み、鎮守の宮の石段を修理した。普請が終ったので、その道具を姉崎村まで送り届けようとしたものであり、賃荷物でないことが明らかになった。従って、この一件は佐助の思い違いであり、長柄山村の敗北であるが、内済証文(35)を見ると大津倉村からも一札を入れ、「駅場え相掛り候荷物之儀は、此方にても後日附け申間敷候。」と誓っている。何んのこともないようなこの一件に、扱人が七人も立っている。駅場長柄山村にとっては重大事であったのであろう。権利を犯されることについては、殊の外厳しかったのである。
註
(1) 立鳥 安藤文也家文書
(2) 同前
(3) 同前
(4) 同前
(5) 同前
(6) 上野 区有文書
差上申済口証文之事
一、上総国長柄郡舟木村外三ケ村惣代右舟木村ゟ同郡中野台村外壱ケ村相手取去戍ノ七月中用水出入申立当 御奉行所様江奉出訴候所用水路之儀ニ付場所熟談被仰村於場所ニ双方立会及掛合候得とも熟談相整不申破談ニ罷成其段去戍十月中御訴奉申上猶同十一月三日御差日之御尊判頂戴相附候所相手方ゟも夫々返答書差上当日双方罷出追々御吟味中ニ御座候所今般扱人立入熟談内済仕候趣左ニ奉申上候
一、右出入扱人立入双方江篤与承り糺候所訴訟方ニ而ハ相手中野壱村地内字清水谷与申出水往古ゟ引来り田方植村仕来り然ニ上野村ニ而中野台村与馴合新規ニ畔水堀ヲ仕立不順ニ畔堀へ相流上野村へ引入候ニ付訴訟方村外三ケ村へ右水一滴も落水無之植村差支御田地相続ニも抅り難渋之旨申立相手中野台村ニ而者訴訟方申立候字清水谷ハ清水沢ニ有之右水訴訟方へ為引取候儀曾而無之一躰地所[ ][ ]相当候ニ付山之郷村地境へ幅壱尺程之畔溝往古ゟ補理置余水山之郷地所ゟ上野村へ順水ニ相流来全新規無之旨申之且上野村ニ而者先年ゟ田畑養水ニ引来り候用水当村并中の台村とも小高ニ付見掠無 右水可引取巧ヲ以中野台村与馴合候抔と無 形偽り之儀申立候趣申之訴答一同申 ひ候得とも今般扱人立入掛合上右清水沢之末水上野村於地内毎月九日十九日廿九日壱ケ月三日宛上野村舟木村両村ゟ壱人宛立会竹樋を掛ケ舟木村江相流シ候筈取極聊無申分熟談内済仕偏ニ 御威光与難有仕合ニ奉存候然上ハ右一件ニ付重而双方ゟ御願筋毛頭無御座候依之為後証連印済口証文差上申所如件
飯田大五郎
知行所
戸田又兵衛
上総国長柄郡味庄村
曲淵大学
村上荒次郎
宅間与右衛門知行所
御手洗五郎兵衛
山下金之助
同国同郡真名村
永井鉄弥
知行所
永井一学
同国同郡国府関村
安藤増五郎
知行所
市岡左膳
同国同郡舟木村
右拾壱給四ケ村
小前村役人惣代
市岡左膳知行所
同国同郡舟木村
訴訟人、名主 治兵衛印
文政十亥年壬六月二日
山本六右衛門知行所
同国同郡中野台村
相手方 百姓 巳之助、源兵衛
右両人煩ニ付代兼、組頭 与惣次印
百姓 五平次印
小笠原釆女知行所
同国同郡上野村
名主 林蔵
組頭 伝右衛門
右両人煩ニ付代兼、百姓代 太右衛門印
右者曾我豊後守様奉出訴御吟味中我等立入内済仕依之為和睦 印形仕為後証一札仍而如件
水野伯耆守知行所
同国同郡桜井村
名主 三郎兵衛印
伊沢助三郎知行所
同国同郡力丸村
名主 庄兵衛印
武田与左衛門知行所
同国同郡国府里村
名主 新左衛門
代 久右衛門印
林肥後守領分
同国市原郡古都辺村
名主 友右衛門
代 清兵衛印
井上筑後守領分
同国同郡奈良村
名主 勘助
代 宇右衛門印
松平弾正大弼領分
同国長柄郡山根村
名主 三郎右衛門印
同 兵与衛印
石谷十蔵知行所
同国市原郡金剛地村
名主 守八
代 庄蔵印
本郷丹後守知行所
同国長柄郡皿木村
名主 清左衛門
代 和吉印
筧新太郎知行所
同国同郡長柄山村
名主 勘兵衛印
山本六左衛門知行所
同国同郡六地蔵村
名主 与八印
秩父槌五郎知行所
同国同郡山之郷村
名主 太右衛門印
水野伯耆守知行所
同国同郡道脇寺村
名主 伊右衛門印
御奉行所様
多賀大郎家所蔵の済口証文も、ほぼ上野区有の証文と同じ内容であるが、一部異る点があるので抜書きしておく、「新溜井早速可申筈ニ御座候所差当出来兼依之追々相談之上仕立可申筈」と新しい溜井をつくることをうたっている。上野区有の、もう一つの証文原稿にも「為永久山ノ郷村野谷ニ能溜井場所有之候ニ付見立可遣旨取扱」とある。
(7) 針ケ谷 小倉正男家文書
(8) 刑部内藤正雄家蔵 享和二年の書上げの写し。
『千葉県史料』(近世編)に収録。
(9) 鴇谷 磯野真常家文書
(10) 舟木村八反目、村は私称で舟木村の一部分である。
(11) 裁許状署名者
勘定奉行 徳山五兵衛重政
〃 杉浦内蔵允正照
〃 松浦猪右衛門信貞
江戸町奉行 嶋田出雲守守政
〃 渡辺大隅守綱貞
寺社奉行 本田長門守忠利
〃 戸田伊賀守忠昌
〃 小笠原山城守長頼
(12) 国府里村と山根村野論裁許状
国府里区有文書
上総国二宮領国府里村与同国山根村野論之事、国府里村百姓訴候者、従往古入会秣刈取候、然ニ承応年中従山根村牓示立之ニ付、及訴論処、五郷組之者取扱、野銭出之刈来候、至去々年理不尽防止之由申之、山根村百姓申候者、於道脇寺野秣可刈取旨国府里村之者訴出候節重而検使被遣迄ハ野銭取之、道脇寺野江可入之由ニ付、其通ニ而差置候、今般、野銭場之外江猥ニ入候故、防之旨答之、遂糺明処、五郷組取扱証文之面、野銭五百文出之可入会由載之、道脇寺野と有之文言不相見上者、不残為入会儀無紛、依之絵図之面引墨筋、各加印判、境相定畢、国府里村百姓如先規野銭出之、墨筋之内江入会秣可刈取之、為後証令裏書、双方江下置条、不可違犯者也
元禄四年辛未二月廿五日
(筆者注) (筆者注)
(勘定奉行) 稲伊賀 印 (稲生正照)
( 〃 ) 松美濃 印 (松平重良)
(江戸町奉行) 能出雲 印 (能勢頼相)
( 〃 ) 北安房 印 (北条氏平)
(寺社奉行) 本紀伊 印 (本田正永)
( 〃 ) 戸能登 印 (戸田忠真)
( 〃 ) 小佐度 印 (小笠原長重)
(13) 国府里区有文書
元文午年正月廿五日差上候
上総国長柄郡国府里村与同郡山根村野論
御載(ママ)許御証文写
中奥御番 武田与左衛門知行
上総国長柄郡国府里村
差上申一札之事
一、上総国長柄郡国府里村訴上候者、御子屋台芝地之儀、元禄四年及出入、国府里・山根両村入会ニ御裁許被仰付候処、今度、山根村之者共我儘ニ入会差留、其上右場所御新田願之者在之ニ付、障り願ニ罷出候節之路用、入会ニ無之千代丸村差加江割合いたし候間、右割合難指出旨訴上之候。
一、同郡山根村訴上候者、御子屋台之儀、山根村地元ニ而、国府里村入会秣苅来、千代丸村も入会ニ付、御新田障り之儀三ケ村一同ニ願出候間、路用割合出銭いたし候処、国府里村及難渋旨答上之候。
右出入再往被遂吟味候処、元禄年中御裁許之節、右論所山根村地元ニ而国府里村入会ニ被仰付候得共、寛永年中山根村与千代丸村及異論、近村之者共取扱、千代丸村入会之積り申合候扱証文有之、今以入会来候段無相違田、山根・千代丸両村申之、殊ニ新田障願之節、御代官江指出候証文ニ山根・国府里・千代丸三ケ村入会場所之由記、三ケ村連判ニ而相願、其上地元之山根村為入会段申上者、国府里村申所難相立候。依之被仰渡候、新田障願之節も入会之由認メ連判証文差出候段暦然ニ付、国府里村同前ニ千代丸村茂野銭指出秣可苅取、勿論、路用割合銭も三ケ村可致高割旨一々被仰渡、双方承知奉畏候。以来、此儀ニ付及出入候ハヽ御科可被仰付候。為後証連判一札指上申所仍如件。
武田与左衛門知行
上総国長柄郡
元文三年午正月廿五日 訴訟方、国府里村
名主 金兵衛
組頭 嘉右衛門
曲淵[ ]左衛門知行
相手方 同郡 山根村
名主 次郎左衛門
筑紫宇兵衛知行
同村名主 仙右衛門
戸塚門五郎知行
同村名主 喜惣次
水野三之助知行
同村名主 新左衛門
松平中務大輔領分
同村名主 与次右衛門
水野左門知行
同村名主 粂助
大井庄十郎知行
同国同郡千代丸村
名主 太郎左衛門
御評定所
(14) 元禄四年の裁許状には、承応年中五郷組取扱、とあるが、元文三年の裁許状写には寛永年中となっている。寛永・承応と二回争論があったのか、承応を寛永と誤ったのか不明である。
(15) 国府里区有文書
元文三午年七月十八日差上候
上総国長柄郡国府里村与同郡山根村野論
御載(ママ)許御証文写
中奥御番 武田与左衛門知行
上総国長柄郡国府里村
差上申一札之事
一、先達而三ケ村入会ニ被仰付候秣場之儀、国府里村野銭不差出、殊ニ茨実生之木迄苅候而野場ニ而干立薪ニ仕候故、秣不足之旨山根村千代丸村御訴申上候。国府里村者、野銭差出候而も山根村不請取、却而出入申掛候。右野場立木ハ無之、秣計ニ而、致刈干候儀者山根村茂同様之儀ニ候旨申立候ニ付、御吟味之上被仰渡候者、国府里村者三百石余ニ而百姓弐拾四、五軒有之、山根村者千石程ニ而百姓七拾余軒有之候得者、山根村不精ニ而刈後レ候儀与相聞、不足与申儀難相立、茨実生之小木鎌刈之分者、同意之儀ニ而可差留様も無之、相互刈干仕候得者何之異論有之間敷儀及再訴、山根村不埓ニ思召候。然上者、山根村ニ留置候刈草国府里村江相渡、相互ニ鎌苅之分者刈干可仕候。尤、鎌不掛木立之分ハ、枝葉迄茂国府里村一切差寄間敷候。次ニ野銭之義国府里村可相納由申上候得者早速差出シ遅々仕間敷候。若、重而右躰之儀及出入候ハヽ、御科被 仰付旨被 仰渡、双方奉畏候。仍而一札差上申所如件。
元文三年午七月十八日
松平中務大輔知行所 上総国長柄郡山根村
名主 与次右衛門
水野左門知行所 同国 同郡 同村
名主 与市
水野三之助知行所 同国 同郡 同村
名主 新左衛門
戸塚門五郎知行所 同国 同郡 同村
名主 喜惣次
筑紫宇兵衛知行所 同国 同郡 同村
名主 仙右衛門
曲淵与左衛門知行所 同国 同郡 同村
名主 次郎左衛門
大井庄十郎知行所 同国 同郡 同村
名主 太郎左衛門
武田主殿知行所 同国 同郡 国府里村
名主 金兵衛
組頭 嘉右衛門
同 与惣兵衛
同 太郎兵衛
同 半兵衛
御奉行所様
(16) 国府里区有文書
(17) 刑部 村上忠義家所蔵
上総国市原郡新巻村与同国長柄郡刑部村
社地并秣場論裁許之事
新巻村訴訟、元来当村秣場之内を刑部村江貸し、浅間宮建させ置候所、此度修復与称し大木七拾本程伐採候。寛文裁許之通下草計刈採、向後、立木不伐荒様に致し度旨、訴え、刑部村答趣、浅間之社地古来より刑部村地内取支配祭礼仕来、棟札にも刑部村与記候。先年出入の所者地所相違候。只今迄宮修復に社木遣ひ来候間、新巻村不相障様に致度旨、答え、右論所就不分明、御代官堀江清次郎・大塚彦六両手代差遣令地改処、浅間宮社地無証拠にて、両村申分就難取用、山境之儀近村江相尋候得者、往古より峯弦或ハ谷沢を境に相定候旨、申之、論山巳より戍江峯弦分明に相立、南ハ新巻村北は刑部村地内に無紛相見候。然処、峯弦を打越新巻村内江踏込立木伐採候儀、刑部村之者共理不尽之至也。其上、荒畑之儀刑部村難申立、其証拠無之、新巻村数年所持仕来上ハ新巻村之地所に相決候。勿論、つくみ野より新巻村宇津木谷迄之境互雖相争、是又双方無証拠候。依之、今般峯弦谷限之法を糺、絵図面之通南方浅間原・天神之台・流之作ハ巳方より戍方迄峯弦を見通し、夫より新巻村内鳥居坂新古之畑際通りつくみ野迄者有来境に随ひ、北方つくみ野・上人作・井之森ハ申方より寅方まで宇津木野通り谷間を見通し、新巻・刑部両村野山境相定之、浅間宮刑部村より支配祭礼仕来候儀者如先規たるへし。但、社回り木立有之所ともに百七拾歩ハ社地と極、自今双方一切不可差寄。右社地与野境ハ可致掘切候。且又、刑部村伐採候松木三百本ハ入札を以売払之、右代金双方立合致封印、別当慈眼寺預り置、宮修復之節双方申談右入用に可仕候。尤、向後修復に付、社木伐採候ハヽ、是又両村立合相談之上可伐採之、秣場之事、新巻村申所ハ、刑部村為入会候野ハ浅間宮続野計之由、刑部村申趣ハ、浅間野天神之台・流之作・井之森・津くみ野・上人作以上六箇所江野銭差出し入会候由、相争、右之訳請刈之村々相尋候得者虚実相知連候旨刑部村申之、新巻村ハ請刈之村江相尋候儀差許候様ニ申之、然上者新巻村申分難立、刑部村前々より入会たる事分明候条、右六箇所江可入会候。右之通、衆議之上裁判之畢。仍為後証絵図面野山境引墨筋、各加印形令裏書、双方江下授条、永下可再犯者也。
寛保三亥歳九月二十五日
萩 伯耆印
木 伊賀印
御用方無加印 水 対島
御用方無加印 神 若狭
御用方無加印 神 志摩
嶋 長門印
石 土佐印
山 因幡印
大 越前印
本 紀伊印
堀 相模印
(18) 刑部 村上忠義家所蔵
(19) 刑部 村上忠義家文書
(20) 刑部 村上忠義家文書
(21) 刑部 内藤正雄家文書
(22) 刑部 内藤正雄家文書
差上申済口証文之事
上総国長柄郡針ケ谷村役人惣代名主金右衛門外壱人与、同郡篠網村名主常次郎外九人江相掛候秣場出入、去卯年七月中服部伊賀守様御勤役中奉出訴、同八月十三日御差たし御尊判頂戴相附、相手方よりも返答書を夫々差上御吟味中御転役ニ而、遠山左衛門尉様江御引渡ニ相成御吟味中之処、御日延奉願上、熟談内済仕候趣意左ニ奉申上候。
一、右出入双方得与懸合候処、六地蔵村地元秣場二ケ所有之内、今般之論所字ごーじ谷之儀者、正保・元禄再度御裁許絵図ニ御書載有之候得とも、心得方違ニ而既出入と相成、訴訟方ニ而ハ、往古より六地蔵村江野手として籾八斗宛年々差出し候上ハ、秣場弐ケ所とも針ケ谷村一手持と相心得、相手方ニ而ハ、論所ごーじ谷ハ針ケ谷・篠網・初芝三ケ村入会野与心得、初芝村ニおゐてハ、是迄入会苅取候儀是無趣申立一同争論中、地元六地蔵村役人并長柄山役人とも被召出、御吟味中及懸合、訴訟方ゟ六地蔵村江差出候籾八斗之内、針ケ谷村ニ而七斗差出、篠網村ニ而壱斗差出、年々両村より地元江相納、針ケ谷村・篠網村両村入会苅取相極、初芝村ニ而ハ申立通不苅入、且又、前書秣場二ケ所之内論外字物王坊之儀ハ、六地蔵野手山与御記有之上ハ、針ケ谷村一村持限りニ無相違段御趣意相分り、次ニ、訴訟方 之内野を孕字栗林与唱候畑続三ケ所之内、二畝歩之畑地ヲ相手方踏荒差留、しかも致通行候段心得違相弁、訴訟方江被相詑候ニ付、格別之勘弁を以前書二畝歩之畑年貢之内、為助合与鐚三拾文宛永久とも年々篠網村より針ケ谷村役人江差出、畑 同村一統無万障、人馬往来通行為致筈永極、其外申争 ハ相互勘弁いたし、一同聊無申分熟談内済仕、偏御威光与難有仕合奉存候。然ル上ハ、右一件に付重て御願筋無御座候。依之済口証文奉差上候処如件。
大井主計、岡部左京知行所
上総国長柄郡針ケ谷村
役人惣代
肥田豊後守知行所
同村名主
文政三辰年四月 訴訟人 金右衛門印
布施藤兵衛知行所
同国 同郡 篠網村
名主 常次郎
組頭 三次郎
同 次郎右衛門
百姓代 重兵衛
沢弥兵衛知行所
同村名主 源右衛門
組頭 市右衛門
相手 百姓代 清兵衛
岡松八右衛門知行所
同村右惣代 源右衛門印
布施藤兵衛知行所
右篠網村組頭 良助印
山本七十郎知行所
同国 同郡 六地蔵村
引合人 名主 与八印
同 知行所
同国 同郡 長柄山村
名主 利右衛門印
御評定所
前書之通及取替置ノ事
(23) 刑部 田中早苗家文書
(24) 刑部 村上忠義家文書
(25) 刑部 村上忠義家文書
(26) 刑部 村上忠義家文書
乍恐以書付御訴訟奉申上候
小笠原重左衛門組
御先手同心方給地
上総国長柄郡刑部村
字辺田谷、同三沢谷百姓惣代
訴訟人 藤七
同 市兵衛
地所出入
同組 同給地
同国 同郡 同村
相手年寄 市蔵
林半太夫様御知行所
同国 同郡 同村
相手組頭 政次郎
同 同 長兵衛
同 同 清左衛門
同 同 六兵衛
右訴訟人藤七・市兵衛奉申上候。私共村方之儀ハ七給入会ニ而、林半太夫様・布施藤兵衛様・瓦林鉄五郎様・沢弥兵衛様御知行所右四給村役人共より村方百姓持山并秣場等地境不分明之場所相見江候由ニ而境引可致旨、私共地頭所鵜飼邦五郎様・駒井半蔵様御知行分共三給村役人共江掛合候ニ付、右者夫々境等も相分り居候場所、自己ニ境引等者難致候間、銘々地頭所江伺之上孰とも可致由及挨拶候所、相手之内、林半太夫様御知行所組頭四人之者共重立以の外憤り、外三給役人を相勧メ荷担いたし、私共方三給相手取出訴ニモ可相成処、其節隣村拾壱ケ村総代鴇谷村名主金兵衛、林半太夫様御知行分神職月岡伊予、私共同給年寄佐吉親次郎左衛門、右三人扱ニ立入、古来有形ヲ不失、見計候を以境筋可取調対談ニ而内済仕候段、私共地頭所御年番様迄村役人どもより伺候得者、御年番様より被仰渡候ニ者、御給地百姓五拾四人之内訴答之者有之由不宜叓故、和熟之上農間を見合、不相分場所は水帳ニ引当、植合を以相調候様年寄市蔵江御書付被下置候故、百姓一同奉畏、熟談之上連印仕、則同人方江預ケ有之候。然ル処、名主・年寄迄同人ニ組シ、相手四給村役ニ馴合、地頭所被仰渡ニ背、農業無寸暇時節、剰当丑四月九日より境改ニ取掛リ、扱人金兵衛儀ハ歩役人足ヲ私共ニ相当、日々駕籠ニ乗歩行遠見致、扱人共一同馴合与相見江、相手之者共勝手儘境ヲ引、百姓所持之山々屋敷内山谷限り社地共、大小之立木地所とも秣場之由強勢申張、九分通り奪取、残り一分ハ立木も無之場所茅野而已私共江相渡、反畝歩打結境塚築立候儀ハ新繩竿入同様之致方、猶亦、相手四ケ谷之内、月川谷之分而已相改候得共、是迚も残シ置候場所も有之、篠網・稲塚・吹谷三ケ谷分者一向相改不申儀ハ難心得儀故、右之趣及掛合候処、彼是申均し境引ニ准、右場所盛木茂り候を大金と見込、凡て弐拾ケ所程可奪取巧ニ而、村役人共欲精ニ耽り、境目暦然と相分り候場所文禄年中村方一躰ニ御繩受以来、夫々進退致来候地所無謂挾取、其上山主壱人別ニ呼出し、押而印形可致旨申之、若不承知之者有之候得者、多人数ニ而手込ニも可致躰ニ立騒候間、其威ニ恐、且者不法之致方心外ニ存可願立存寄之ものも御座候而も、素より困窮之者ニ候得者多分之入用難出来、無是非一同調印仕候得共、全納得之者壱人も無之候。一躰私共村方之儀ハ、外稼無之、農間冬春共炭薪伐取暮し致、御年貢諸役之足合ニ致来候処、去子十二月ゟ右様企候含有之候哉、相手之者重立外三給相加り、日々山番相附、私共山稼差留、自分組下のものニは勝手儘ニ為相働候間、右次第難心得旨申断候得者、強精而已申張取敢不申、右境引之儀も農間ニ可致候処、四月・五月者百姓無暇節、肥草・麦作苅取迄被差留、境引人足ニ私共日々罷出候間、麦作取入相おくれ蘗穂ニ相成、私共両谷百姓とも当時夫食ニ差詰り、其上右様山稼迄被差留候間、百姓一同困窮ニ落入難渋当惑仕り、既ニ此節右一件ニ付、鵜飼邦五郎様御知行所名主次郎右衛門煩ニ付代兼忰名主見習丈助義、先月九日林半太夫様御知行所組頭四人之者相手取、内藤隼人正様江奉出訴候、願之義は、私共願同様之筋御座候間、何卒格別之以御慈悲右丈助御願被御差加、御吟味被成下置、前書被奪取候地所・立木共、古来有形之通り境目相守り置而、右躰不法難題不申掛、無難ニ百姓永続相成候様被仰付被下置度奉願上候。尚、子細之義ハ、御尋之節乍恐口上ニ而可奉申上候。以上
(26) 林寿祐家文書『千葉県史料』近世編所載
(27) 刑部 内藤正雄家文書 千葉県史料近世編所載
(28) 刑部 内藤正雄家用留
(29) 田代 田代家文書
差上申一札之事
一、私共出入被為遂御吟味候処訴訟之儀相対之上六地蔵村へ差出候助合人馬同村名主問屋共年来過高触当候段者御吟味之上無相違候得共右触当方疑敷心附候ハヽ得与相糺可申処等閑之掛合致置年来其儘ニ而助合候分者今更ニ相成右過高ヲ以触当候分相手方より償候儀致度由之申分は難立其外御年貢津出し之節者六地蔵村五郷組合ニ而人馬継立不足之節は助合人馬百石弐疋之割合ヲ以触当御私領米売荷物等之儀者不助合仕来之由相手方申立候義者彼是可申立筋ニ無之且和田村田尾村山小川村之儀も享保元文寛保之度六地蔵村より助合人馬触当候節夫々人馬差出候節之諸賃銭請取帳ニも一同調印形有之上者助合村々ニ無之由之申分難立依之以来御年貢者勿論外継立之儀も助合村々一同和融致差支無之様程斗ひ可申儀被仰渡候
一、相手方のもの共儀長柄山村外五ケ村内田村外三拾ケ村高帳之由申立帳面江印形取置候儀ニも無之全自己之書留ニ候ハヽ高帳之由者申分難御取用既ニ内田村高千六百五拾石余ニ候処弐千六百石之記有之候迚得与糺不致前々之程斗ひとハ乍申右躰過高ヲ以助合人馬触当候段不埓ニ付名主問屋過料銭五貫文宛被仰付候
右被仰渡之趣一同承知奉畏候且過料銭者三日之内大貫次右衛門様ヘ可相納旨是又奉承知候若相背候ハヽ重科ニ可被仰付候仍而御請証文差上申所如件
享和三亥五年月四日
伊丹駒次郎知行 上総国市原郡内田村
訴訟方 村役人惣代名主 利助
山本平六郎知行 同国 長柄郡六地蔵村
相手方 名主文蔵煩ニ而代兼問屋 弥兵衛
御吟味ニも被召出
滝川小右衛門御代官所
斉藤鎌次郎知行
外四拾壱給同郡長柄山村
外三拾五ケ村役人惣代
斉藤鎌次郎知行
笠森村名主 兼右衛門
山本平六郎知行
中之台村名主 太郎右衛門
小柴平吉知行
川在村名主 長重郎
御評定所
右者石川左近将監様御掛ニ而御裁許畢
(30) 山根 道脇義治家文書
乍恐以書付御訴訟奉申上候
服部一郎右衛門、石丸檀六郎、塩入大三郎、
有泉太郎左衛門知行所 上総国長柄郡茂原村
右四給村役人惣代
服部一郎右衛門知行所 同国 同郡 同村
訴訟人名主 清右衛門
有泉太郎左衛門知行所 同国 同郡 同村
訴訟人名主 三郎左衛門
仕来相破品々不法之取斗致候出入
松平弾正大弼様御領分 同国 同郡 山根村
名主 藤右衛門
水野伯耆守様御知行所 同国 同郡 同村
名主 孫平
戸塚豊後守様御知行所 同国 同郡 同村
名主 孫右衛門
筑紫佐度守様御知行所 同国 同郡 同村
名主 民蔵
水野左衛門様御知行所 同国 同郡 同村
名主 新左衛門
曲淵与左衛門様御知行所 同国同郡 同村
名主 平左衛門
市岡左膳様御知行所 同国 同郡 同村
名主 次兵衛
曲淵大学様御知行所 同国 同郡 同村
持添 名主
安藤増五郎様御知行所 同国 同郡 同村
年番名主 甚蔵
同 御知行所 同国 同郡庄吉村
年番名主 惣右衛門
武田与左衛門様御知行所 同国 同郡 同村
組頭 文右衛門
同 御知行所 同国 同郡力丸村
名主 四郎兵衛
伊沢助三郎様御知行所 同国 同郡 同村
名主 伊兵衛
村上荒五郎様御知行所 同国 同郡 真名村
名主 図書
曲淵大学様御知行所 同国 同郡 同村
名主 八郎右衛門
宅間与右衛門様御知行所 同国 同郡 同村
名主 九兵衛
御手洗五郎兵衛様御知行所 同国 同郡 同村
名主 斧右衛門
山下金之助様御知行所 同国 同郡 同村
名主 与惣右衛門
飯田大三郎様御知行所 同国 同郡味庄村
名主 八郎右衛門
戸田又兵衛様御知行所 同国 同郡 同村
名主 伊兵衛
桜井〓五郎様御知行所 同国 同郡芦網村
名主 源右衛門
酒井作右衛門様御知行所 同国 同郡 同村
名主 利右衛門
内藤免八郎様御知行所 同国 同郡黒戸村
名主 六郎左衛門
同 御知行所 同国 同郡大登村
名主 新兵衛
大井新之允様御知行所 同国 同郡千代丸村
名主 太郎兵衛
永井鉄弥様御知行所 同国 同郡国府里村
名主 市郎右衛門
永井一学様御知行所 同国 同郡 同村
名主 太郎兵衛
右訴訟人名主清右衛門同三郎左衛門奉申上候当村之儀ハ四給入会村高纔弐百九拾石余至而困窮ニ者御座候得共天正年中御検地入被仰付当国四方并安房国ゟ江戸往還之継場ニ而親村与唱前書山根村外弐拾四ケ村ニ而助合往古ゟ御用御通行之砌人馬無滞差出来延享天明両度御巡見被為在其節右村々ゟ助合人馬差出仍之右助合村々ニ抅り候諸入用之儀茂当村共弐拾六ケ村ニ而割合是又村々ニ而出金致来り公私用共従来聊無差支不難ニ継場相続罷在候旧例を守組合之内高師村外拾ケ村之儀ハ今以触当通り人馬相勤諸入用割合通り出金仕候得共相手村々之儀者中[ ][ ]人気不宜罷成就中同郡一ツ松郷ゟ御城米附越之儀先年ゟ当村ニ而継立夫ゟ六地蔵村江附送り来候処寛政年中竹垣三右衛門様滝川小右衛門様両御代官所之節右三右衛門様御手代衆御回村之上已来者当村高師村両村ニ而引請年々継立可致被仰渡之儀相守依之六地蔵村江附送り候人馬不足之節者助合村々江人馬触当候処小林村拾壱ケ村之者共ハ何れニ茂篤実ニ御座候間触当通り年々人馬無滞差出候得共相手村々者共儀ハ故障申出御城米附送り差支既ニ御糺ニ茂可相成処親村之儀ニ付難見遁私共村方ニ而立入申諭助合人馬為差出候様取計遣候深切を却而何様心得違候歟右村々役人共其砌ゟ当村ヲ疎物毎不平ニ押移り国府関真名両村重立往々助合ヲ可相離巧ヲ以種々目論見致割合出金滞候而已ならす助合ニ者無之抔流布仕候段相聞難心得其上人馬触当候得者及遅刻度々迷惑致候儀間々有之且又関東在々為御取締御回村被拵候御出役様方町御奉行様御組火附盗賊御改方其外臨時御用御出役様方御通行之節諸入用年々出銭可致割合之儀茂兎角彼是差〓候叓柄追年増長仕当拾壱ケ年以前戍年ゟ亥年迄拾ケ年之間一向不差出其上国府関村ハ当村五郷ニ乍在都而仕来相破難得其意及懸合候処是以山根村其外一致罷在候ニ付我意而已申募り頓着不致親村之詮不相立第一万叓差支勝ニ而難渋至極ニ付早速其段申立御訴訟ヲ茂可奉申上処差当諸雑費難渋仕勿論年々及掛合候儀ニ者候得共拾ケ年余茂相過置候段者全等閑之取斗方奉恐入候儀ニハ御座候得共此上右躰出銭等閑相成候而ハ小高困窮之村柄故甚以難儀仕殊ニ来酉年乍恐日光山
御参詣被為拵候ニ付助合加助有之村々ハ夫々可書上旨被仰出右印状当三月中当村江順着拝見仕候処組合村々之内高師村外拾弐ケ村之儀ハ茂原村助合ニ而高師村江茂人馬差出候旨之下札致相手方之儀者拾弐ケ村一組ニ而安永之度
御社参之節真名国府関両村ニ而引請御用相勤外宿江ハ人馬差出不申旨先達而中下札致差上候ニ付先例与齟齬致候段懸合候処不取敢且右村外同郡箕輪村之儀茂同様下札仕候ニ付是又及懸合候処心得違之旨ニ付一札取置候得共外相手村之儀ハ旧来之助合為可引潰我意押通シ候儀ハ畢竟窮村愚眛与見掠前書不正之書上仕候相違無御座夫形差置候而ハ此上如何様之儀取巧可申茂難斗第一御用御継立差支且ハ組合村々之親拒ニも抅り一村相続難相成候ニ付無是非今般御訴訟奉申上候何卒以御慈悲ヲ相手名前之者共被召出前書始末逸々御吟味被仰付向後仕来相守組合弐拾六ケ村割合出銭ヲも差出無難ニ継場永続罷成候様被仰付被下度偏ニ奉願上候以上
服部一郎右衛門、石丸檀六郎、有泉太郎左衛門、塩入大三郎知行所 上総国長柄郡茂原村
右四給役人惣代
服部一郎右衛門知行所 同国 同郡 同村
訴訟人名主 清右衛門
有泉太郎左衛門知行所 同国 同郡 同村
訴訟人名主 三郎左衛門
御奉行所様
如斯目安差上候間致返答書来ル九月十三日評定所江罷出可対決若於不参ハ可曲事者也
申七月廿二日(注文政七年と推定)
(筆者注)
主水 (勘定奉行 石川主水正忠房)
豊後 ( 〃 曾我豊後守助弼)
御用方無加印
左衛門( 〃 遠山左衛門尉景普)
御用方無加印
淡路 ( 〃 村垣淡路守定行)
伊賀 (江戸町奉行 筒井伊賀守政憲)
主計 ( 〃 榊原主計頭忠之)
豊前 (寺社奉行 本多豊前守正意)
摂津 ( 〃 太田摂津守資始)
左近 ( 〃 水野左近将監忠邦)
伯耆 ( 〃 松平伯耆守宗発)
(31) 火附盗賊改は、火災の予防、盗賊の逮捕、博徒の取締りを主とする、町奉行とは別個の独立した機関である。
(32) 文政八年(酉年)の日光社参は、実施されなかった。
(33) 田代 鶴岡仁一家文書
乍恐以書附御訴訟申上候
上総国長柄郡田代村
大久保三之助知行所
水野藤八郎知行所
訴訟人 治郎左衛門
同 仁兵衛
同 孫兵衛
越石出入
同国 同郡 刑部村
二之御丸 御同心衆様御知行所
相手名主 重郎右衛門
同 同 伊兵衛
右田代村治郎右衛門仁兵衛孫兵衛其外越石百姓共申上候拙者共拾七人刑部村之内ニ高拾三石目余ニ而田地弐町弐反三畝歩古来ゟ越石ニ所持仕来御年貢御上納仕候他村之儀ニ御座候故刑部村伝右衛門与申者前々ゟ相頼名主方ゟ之御免定之写シ御年貢割付御蔵前請取証文高役諸色相勤させ申候右役請負代米四俵余宛年々相渡シ勤来申候然処享保四亥之年刑部村惣百姓共仲間ニ而田代村分之役儀伝右衛門相勤不申候間田代村之者役儀相勤候様申来候間伝右衛門方取放シ亥子両年田代村越石百姓御役義相勤申候然処右伝右衛門御地頭様江御願申上候故享保五子十二月十九日御地頭様江拙者とも被召出被拵御意候様者此度伝右衛門願候儀者田代村之役儀被相頼候処引はなされ 申候由願候間毎度之通頼候様ニ可仕与被仰付候得共拙者共困窮百姓之儀ニ御座候得者役米出シ候儀茂 仕候段申上候然共達而頼候様被仰付候故又々伝右衛門相頼右拾三石目余之越石高役諸色共請負役米請取可申旨証文取伝右衛門相頼申候其後巳春中御地頭様ゟ御用金被仰付候処諸色頼置候故御用金伝右衛門方ニ而差出申候当閏正月御用金被仰付候故其段伝右衛門方江申遣候得者右御用金出申儀成申間舗申候故御地頭様御用茂かけ如何と奉存御割付之通金壱両弐分銭弐百六拾八文越石拾三石之百姓ゟ差上申候右之通伝右衛門約束相違仕候故右頼置候ヲ取放シ刑部村名主伊兵衛重郎右衛門方江右段々之儀申達シ此後御役儀如何様之儀ニ而茂家々共ニ被申付候様ニ閏正月廿三日名主衆江申達候御事
一、当正月朔日ニ刑部村名主衆拙者共江被申聞候者此度御地頭様ゟ御召被拵候付来ル六日江戸江罷出候様ニ被申付候間則四人罷出候処御地頭様被仰聞候様者此度用金申付候処ニ伝右衛門出シ不申候間其方共出候義伝右衛門不届候然共伝右衛門役儀請負候儀ハ八ケ年以前此方ニ而直々申付候義内証ニ而引はなし候義不届成儀与被拵御意候右伝右衛門約束相違御用金出不申候間取放シ刑部村名主衆江委細ニ御断申達候旨申上候御事
一、右越石高拾三石目余之内四郎右衛門所持仕候田壱反廿歩同源右衛門所持仕候田壱拾反弐歩刑部村之内彦兵衛伝三郎両人方江十ケ年季ニ質地ニ売渡申候付名主両人方江相断候処其方共勝手次第与申ニ付孫兵衛権三郎判形ニ而証文仕無何事罷有候処ニ名主両人如何様之意趣有之候哉御地頭様江越石田地我儘ニ売払申候旨色々謀計申上候歟越石拾三石余之所不残右田地売渡申候金子差添相渡候様ニ申越候不存寄難題申儀ニ候間難心得存御地頭様罷出様子窺申上候得共名主方ゟ如何様之儀申上置候哉御取上ケ茂無御座大勢之者難儀仕候御事
右之通少茂相違不申上候右越石之百姓古来ゟ所持仕来候所名主両人以巧ヲいわれもなく取上可申[ ]無御座奉存候間以御慈悲ヲ名主重郎右衛門伊兵衛被召出御詮儀之上古来之通拙者共越石無相違所持仕候様被為仰付被下置候者難有可奉存候以上
享保十二年未二月廿六日 訴訟人 治郎右衛門
同 仁兵衛
同 孫兵衛
御奉行所様
(34) 針ケ谷 小倉喜与巳家文書
差上申済口証文之事
上総国長柄郡初芝村名主栄次郎ゟ同国同郡刑部村名主喜代次郎外壱人江相掛難渋出入去る十二月中
久須美佐渡守様江奉出訴当二月廿五日御差日御尊判頂戴相付御吟味中扱人立入双方篤与及掛ケ合熟談内済仕候趣意左ニ奉申上候
一、右出入訴訟人名主栄次郎申立候者当村高五拾五石余御座候処最寄拾七ケ村組合相手刑部村親村与相唱ひ御用筋之儀者相手喜代次郎引請弥兵衛倶々世話致諸入用之儀者村々役人立会勘定仕来候然ル処当三月中小金原御鹿狩御用ニ付諸入用割合出金可仕旨同六月朔日相手弥兵衛ゟ申来候ニ付同人方江罷越遣払巨細帳披見為致呉候様申聞候処右者喜代次郎壱人ニ而割合勘定いたし候間巨細帳は同人方江罷越披見可致旨弥兵衛申之ニ付同月十日喜代次郎方江弥兵衛同道罷越御鹿狩入用遣払帳披見之上得与相弁出金致度旨掛ケ合候処喜代次郎申聞候者追而巨細帳者弥兵衛方江相渡し同人ゟ披見可致旨申聞其後喜代次郎ゟ披見難為致旨断有之何分難心得乍併遣払帳披見不仕候上者出金難相成右躰小村与見掠勝手儘之割合等被致候而者向後何様取計致哉難計依之巨細帳披見為致呉候様再応掛ケ合候得共彼是申紛取敢不申候ニ付組合村々役人方江罷越銘々存寄承り候処右は遺払巨細帳披見も不仕甚割合方難心得存候得共出金茂仕候上は今更同意いたし候儀相成兼候旨一同申之相手喜代次郎ニ品能被相欺同人者親村之儀ニ付万端為相任置候間喜代次郎相泥取計候儀与奉存候且此上何様勝手儘之儀相勤候哉茂難計依之御鹿狩入用遣払巨細帳披見之上出金致度旨其外品々訴上且相手喜代次郎方ニ而者当村之儀者高八百五拾石余七給入会ニ而御用村用之儀者月番立置取計拾七ケ村寄場親村与唱ひ都而組郷江相掛り候御用筋之儀は拾七ケ村之内上組六ケ村小惣代大津倉村名主与右衛門中組五ケ村小惣代針ケ谷村同弥兵衛下組五ケ村小惣代徳増村同八兵衛当村元大惣代半兵衛私共都合五人ニ而取計来候処去ル天保十五辰年十月中右半兵衛儀子細有之退役被申付候得者右与右衛門外三人ニ而相勤罷在候然ル処去々申年十月十三日御鹿狩御用として満岡雄太郎様同国市原郡五井村江御出役之上猪鹿其外生捕御用被仰付候得共当村々之儀者猪鹿等居籠候儀見請不申御用御差支ニ相成候而者奉恐入候儀ニ付御請難相成趣申立候処厚御利解ニ付猪鹿之内壱疋兎弐疋御請仕組郷村々役人共集評之上兎之儀者村々ニ而生捕ニ致候与も猪鹿之儀者房州最寄ニ無之候而者手ニ入申間敷旨談判中幸ひ当村ニ猟師渡世いたし候もの有之候ニ付買求ニ差遣呉候様組合村々役人一同達而相頼候ニ付夫々手当いたし漸々去る正月中女鹿壱疋相求来候折節御鹿狩御掛り御役人中様御回村ニ付其段御届申上飼置候処翌二月中右女鹿相果候間御鹿狩御用御役所江御訴申上尤兎弐疋御請仕候得者八疋ニ致し小金野原江持送り御用弁ニ相成右諸入用仕来り之通高ニ割合可致筈ニ而前書惣代もの共組々村役人立会割合一同調印之上同年六月十日相集候筈取極置候処拾七ケ村組合之内拾六ケ村者組々ゟ出金持参いたし尤中組五ケ村之内四ケ村分弥兵衛持参いたし候節訴訟人栄次郎ヲ同道私方江罷越初芝村之儀者巨細帳披見之上出金可致趣ニ付同道いたし候由申聞候間早速本帳相見セ候処無筆同様ニ付巨細帳仮名書ニ認渡呉候ハヽ篤与屈伏之上出金可致抔不当之儀申張り立帰り候後無沙汰ニ付諸勘定差支ニ茂相成候間立替置同七月十五日組々惣代共出会之砌右之段申聞候処外村々之響ニ茂相成難捨置出訴可致旨一決仕候得共纔鐚弐〆百七拾五文之出銭不差出候迚出訴致候而者小村と見掠候姿ニ相当[ ]無滞出金致候村々江入用相掛ケ[ ]不穏成儀ニ付[ ]割合迄差扣居弥不差出候ハヽ其節出訴致候筈ニ而其儘ニ致置候処同年十月十六日訴訟人栄次郎儀前書弥兵衛方江罷越右出金分差出候間同道致呉候様申聞候由ニ而両人亦々私方江罷越候処栄次郎儀如何相心得候哉右割合出金之儀者不申聞却而私弥兵衛両人江悪口雑言申[ ]剰割合出金一切難差出間勝手次第ニ可致左も無之候ハヽ此方ゟ出訴いたし候抔以之外成不法申募立帰無程私共相手取[ ][ ]池田播磨守様江奉出訴候由然ル処翌十一月廿日頃帰村致[ ][ ]御奉行所ゟ被仰付候趣ヲ以同意可致旨組々村役人共江勧歩行候得共全割合方[ ][ ]筋無之ニ付一統不承知ニ而相断候を意恨ニ存私共江馴合候趣無[ ]形も申掛ケニ御座候一躰栄次郎儀者小村ニ者候得共度々御尊判頂戴公事馴居候ものに御座候間今般之次第も品能書餝奉出訴段難心得奉存候右躰之もの其儘ニ致置候而者其村々響ニ茂相成取締方ニ相拘候儀之旨其外品々答上猶相手之内弥兵衛方ニ而者当村之儀者六給ニ而高六百六拾石余有之最寄組合拾七ケ村ニ而仕来之儀者前書喜代次郎申上候通相違無御座候然処去る三月中御鹿狩御用諸入用割合之儀同五月中組合村々惣代一同相談之上割合仕同六月朔日私共小組合五ケ村役人共出会仕一同承知致罷帰り候処同月十日栄次郎儀私共方江罷越前書割合金之儀者喜代次郎方ニ而早速可差出候間同道致呉候様申之ニ付任其意同道ニ而同人方江罷越候処栄次郎儀如何ニ心得候哉巨細帳披見之上仮名書ニ認相渡呉候抔存外之難題申掛ケ彼是混雑いたし候得共私始惣代共立会割合本帳披見之上ハ[ ]出金可致旨申聞候処一円取敢不申引取候後等閑置候ニ付私組内初芝村而已相滞居外村々江対し如何ニ存候間同七月十六日私方江栄次郎呼寄及掛ケ合候処割合等不差出候間勝手次第可致旨之挨拶ニ而罷帰り彼是打過候内同十月十六日栄次郎儀私方江済方可致旨猶又喜代次郎方江同道いたし呉候様申聞候故一同罷越候処此度茂私ヲ欺矢張前同様出金等茂不仕却而喜代次郎江品々難題申掛ケ何故是迄入用不請取候哉小村与見掠候取斗方抔与不取留悪口申募剰喜代次郎倶々私ヲ茂相手取可及出訴旨不法申掛ケ更々聞入不申今般之次第至り奉恐入候一躰栄次郎儀者平日事好ニ而万端謀計取巧組合村々一同難渋いたし既ニ此度之儀茂組々惣代立会連印巨細帳ヲ喜代次郎壱人ニ而割合致候由私ゟ相[ ][ ]いたし候抔与愚昧之私与見掠偽而已書餝奉出訴候段難心得旨答上申畢御吟味中訴訟方ニ而遣払巨細帳披見致自分写掛ケ紙いたし猶御吟味中扱人立入得与懸ケ会候処去る酉年
御鹿狩諸入用遣払等之儀前々之通今般拾七ケ村組合内刑部村者勿論上組中組下組共惣代立会勘定致候義者喜代次郎ゟ夫々遣払之分者順々記帳ニ付月々聊前後無之尤外村役人共差掛ニ取替置候分月々前後之場合茂有之殊ニ双方談合不行届候故今般之次第ニ相成候得共双方折入而掛ケ合候処相手方ニ而不都合之取計無之段相分村々ニ而茂稀成御用筋御差支不相成御用弁ニ茂相成訴訟方ニ而[ ][ ][ ][ ]候ニ付割合之通訴訟方ゟ出銭致行違[ ][ ]合之廉々者扱人貰請向後相互ニ[ ]間敷可致旨及示談一同聊無申分熟談内済仕偏ニ 御威光与難在仕合奉存候然ル上者右一件ニ付重而御願筋毛頭無御座尤組合村々之儀者関東御取締御用ニ限り候儀ニ有之候処御鹿狩御用之儀を茂右組合ニ而取計候段心得違之旨御利解之趣相弁外村々江茂申通置候様可仕候依之為後証連印済口証文差上申処如件
斉藤久右衛門知行所 上総国長柄郡初芝村
役人惣代
嘉永三戍年六月 訴訟人 名主 栄次郎
鵜飼邦五郎、大谷満三郎知行所
同国 同郡 刑部村邦五郎知行分
相手 喜代次郎
大井新右衛門知行所 同国 同郡針ケ谷村
同 弥兵衛
御奉行所様
前書之通内済仕候間為後日為取替置申候以上
右 栄次郎印
喜代次郎印
弥兵衛印
大津倉村 与右衛門印
小榎本村 周右衛門印
(35) 刑部 池座竜一家文書
(1) 立鳥 安藤文也家文書
(2) 同前
(3) 同前
(4) 同前
(5) 同前
(6) 上野 区有文書
差上申済口証文之事
一、上総国長柄郡舟木村外三ケ村惣代右舟木村ゟ同郡中野台村外壱ケ村相手取去戍ノ七月中用水出入申立当 御奉行所様江奉出訴候所用水路之儀ニ付場所熟談被仰村於場所ニ双方立会及掛合候得とも熟談相整不申破談ニ罷成其段去戍十月中御訴奉申上猶同十一月三日御差日之御尊判頂戴相附候所相手方ゟも夫々返答書差上当日双方罷出追々御吟味中ニ御座候所今般扱人立入熟談内済仕候趣左ニ奉申上候
一、右出入扱人立入双方江篤与承り糺候所訴訟方ニ而ハ相手中野壱村地内字清水谷与申出水往古ゟ引来り田方植村仕来り然ニ上野村ニ而中野台村与馴合新規ニ畔水堀ヲ仕立不順ニ畔堀へ相流上野村へ引入候ニ付訴訟方村外三ケ村へ右水一滴も落水無之植村差支御田地相続ニも抅り難渋之旨申立相手中野台村ニ而者訴訟方申立候字清水谷ハ清水沢ニ有之右水訴訟方へ為引取候儀曾而無之一躰地所[ ][ ]相当候ニ付山之郷村地境へ幅壱尺程之畔溝往古ゟ補理置余水山之郷地所ゟ上野村へ順水ニ相流来全新規無之旨申之且上野村ニ而者先年ゟ田畑養水ニ引来り候用水当村并中の台村とも小高ニ付見掠無 右水可引取巧ヲ以中野台村与馴合候抔と無 形偽り之儀申立候趣申之訴答一同申 ひ候得とも今般扱人立入掛合上右清水沢之末水上野村於地内毎月九日十九日廿九日壱ケ月三日宛上野村舟木村両村ゟ壱人宛立会竹樋を掛ケ舟木村江相流シ候筈取極聊無申分熟談内済仕偏ニ 御威光与難有仕合ニ奉存候然上ハ右一件ニ付重而双方ゟ御願筋毛頭無御座候依之為後証連印済口証文差上申所如件
飯田大五郎
知行所
戸田又兵衛
上総国長柄郡味庄村
曲淵大学
村上荒次郎
宅間与右衛門知行所
御手洗五郎兵衛
山下金之助
同国同郡真名村
永井鉄弥
知行所
永井一学
同国同郡国府関村
安藤増五郎
知行所
市岡左膳
同国同郡舟木村
右拾壱給四ケ村
小前村役人惣代
市岡左膳知行所
同国同郡舟木村
訴訟人、名主 治兵衛印
文政十亥年壬六月二日
山本六右衛門知行所
同国同郡中野台村
相手方 百姓 巳之助、源兵衛
右両人煩ニ付代兼、組頭 与惣次印
百姓 五平次印
小笠原釆女知行所
同国同郡上野村
名主 林蔵
組頭 伝右衛門
右両人煩ニ付代兼、百姓代 太右衛門印
右者曾我豊後守様奉出訴御吟味中我等立入内済仕依之為和睦 印形仕為後証一札仍而如件
水野伯耆守知行所
同国同郡桜井村
名主 三郎兵衛印
伊沢助三郎知行所
同国同郡力丸村
名主 庄兵衛印
武田与左衛門知行所
同国同郡国府里村
名主 新左衛門
代 久右衛門印
林肥後守領分
同国市原郡古都辺村
名主 友右衛門
代 清兵衛印
井上筑後守領分
同国同郡奈良村
名主 勘助
代 宇右衛門印
松平弾正大弼領分
同国長柄郡山根村
名主 三郎右衛門印
同 兵与衛印
石谷十蔵知行所
同国市原郡金剛地村
名主 守八
代 庄蔵印
本郷丹後守知行所
同国長柄郡皿木村
名主 清左衛門
代 和吉印
筧新太郎知行所
同国同郡長柄山村
名主 勘兵衛印
山本六左衛門知行所
同国同郡六地蔵村
名主 与八印
秩父槌五郎知行所
同国同郡山之郷村
名主 太右衛門印
水野伯耆守知行所
同国同郡道脇寺村
名主 伊右衛門印
御奉行所様
多賀大郎家所蔵の済口証文も、ほぼ上野区有の証文と同じ内容であるが、一部異る点があるので抜書きしておく、「新溜井早速可申筈ニ御座候所差当出来兼依之追々相談之上仕立可申筈」と新しい溜井をつくることをうたっている。上野区有の、もう一つの証文原稿にも「為永久山ノ郷村野谷ニ能溜井場所有之候ニ付見立可遣旨取扱」とある。
(7) 針ケ谷 小倉正男家文書
(8) 刑部内藤正雄家蔵 享和二年の書上げの写し。
『千葉県史料』(近世編)に収録。
(9) 鴇谷 磯野真常家文書
(10) 舟木村八反目、村は私称で舟木村の一部分である。
(11) 裁許状署名者
勘定奉行 徳山五兵衛重政
〃 杉浦内蔵允正照
〃 松浦猪右衛門信貞
江戸町奉行 嶋田出雲守守政
〃 渡辺大隅守綱貞
寺社奉行 本田長門守忠利
〃 戸田伊賀守忠昌
〃 小笠原山城守長頼
(12) 国府里村と山根村野論裁許状
国府里区有文書
上総国二宮領国府里村与同国山根村野論之事、国府里村百姓訴候者、従往古入会秣刈取候、然ニ承応年中従山根村牓示立之ニ付、及訴論処、五郷組之者取扱、野銭出之刈来候、至去々年理不尽防止之由申之、山根村百姓申候者、於道脇寺野秣可刈取旨国府里村之者訴出候節重而検使被遣迄ハ野銭取之、道脇寺野江可入之由ニ付、其通ニ而差置候、今般、野銭場之外江猥ニ入候故、防之旨答之、遂糺明処、五郷組取扱証文之面、野銭五百文出之可入会由載之、道脇寺野と有之文言不相見上者、不残為入会儀無紛、依之絵図之面引墨筋、各加印判、境相定畢、国府里村百姓如先規野銭出之、墨筋之内江入会秣可刈取之、為後証令裏書、双方江下置条、不可違犯者也
元禄四年辛未二月廿五日
(筆者注) (筆者注)
(勘定奉行) 稲伊賀 印 (稲生正照)
( 〃 ) 松美濃 印 (松平重良)
(江戸町奉行) 能出雲 印 (能勢頼相)
( 〃 ) 北安房 印 (北条氏平)
(寺社奉行) 本紀伊 印 (本田正永)
( 〃 ) 戸能登 印 (戸田忠真)
( 〃 ) 小佐度 印 (小笠原長重)
(13) 国府里区有文書
元文午年正月廿五日差上候
上総国長柄郡国府里村与同郡山根村野論
御載(ママ)許御証文写
中奥御番 武田与左衛門知行
上総国長柄郡国府里村
差上申一札之事
一、上総国長柄郡国府里村訴上候者、御子屋台芝地之儀、元禄四年及出入、国府里・山根両村入会ニ御裁許被仰付候処、今度、山根村之者共我儘ニ入会差留、其上右場所御新田願之者在之ニ付、障り願ニ罷出候節之路用、入会ニ無之千代丸村差加江割合いたし候間、右割合難指出旨訴上之候。
一、同郡山根村訴上候者、御子屋台之儀、山根村地元ニ而、国府里村入会秣苅来、千代丸村も入会ニ付、御新田障り之儀三ケ村一同ニ願出候間、路用割合出銭いたし候処、国府里村及難渋旨答上之候。
右出入再往被遂吟味候処、元禄年中御裁許之節、右論所山根村地元ニ而国府里村入会ニ被仰付候得共、寛永年中山根村与千代丸村及異論、近村之者共取扱、千代丸村入会之積り申合候扱証文有之、今以入会来候段無相違田、山根・千代丸両村申之、殊ニ新田障願之節、御代官江指出候証文ニ山根・国府里・千代丸三ケ村入会場所之由記、三ケ村連判ニ而相願、其上地元之山根村為入会段申上者、国府里村申所難相立候。依之被仰渡候、新田障願之節も入会之由認メ連判証文差出候段暦然ニ付、国府里村同前ニ千代丸村茂野銭指出秣可苅取、勿論、路用割合銭も三ケ村可致高割旨一々被仰渡、双方承知奉畏候。以来、此儀ニ付及出入候ハヽ御科可被仰付候。為後証連判一札指上申所仍如件。
武田与左衛門知行
上総国長柄郡
元文三年午正月廿五日 訴訟方、国府里村
名主 金兵衛
組頭 嘉右衛門
曲淵[ ]左衛門知行
相手方 同郡 山根村
名主 次郎左衛門
筑紫宇兵衛知行
同村名主 仙右衛門
戸塚門五郎知行
同村名主 喜惣次
水野三之助知行
同村名主 新左衛門
松平中務大輔領分
同村名主 与次右衛門
水野左門知行
同村名主 粂助
大井庄十郎知行
同国同郡千代丸村
名主 太郎左衛門
御評定所
(14) 元禄四年の裁許状には、承応年中五郷組取扱、とあるが、元文三年の裁許状写には寛永年中となっている。寛永・承応と二回争論があったのか、承応を寛永と誤ったのか不明である。
(15) 国府里区有文書
元文三午年七月十八日差上候
上総国長柄郡国府里村与同郡山根村野論
御載(ママ)許御証文写
中奥御番 武田与左衛門知行
上総国長柄郡国府里村
差上申一札之事
一、先達而三ケ村入会ニ被仰付候秣場之儀、国府里村野銭不差出、殊ニ茨実生之木迄苅候而野場ニ而干立薪ニ仕候故、秣不足之旨山根村千代丸村御訴申上候。国府里村者、野銭差出候而も山根村不請取、却而出入申掛候。右野場立木ハ無之、秣計ニ而、致刈干候儀者山根村茂同様之儀ニ候旨申立候ニ付、御吟味之上被仰渡候者、国府里村者三百石余ニ而百姓弐拾四、五軒有之、山根村者千石程ニ而百姓七拾余軒有之候得者、山根村不精ニ而刈後レ候儀与相聞、不足与申儀難相立、茨実生之小木鎌刈之分者、同意之儀ニ而可差留様も無之、相互刈干仕候得者何之異論有之間敷儀及再訴、山根村不埓ニ思召候。然上者、山根村ニ留置候刈草国府里村江相渡、相互ニ鎌苅之分者刈干可仕候。尤、鎌不掛木立之分ハ、枝葉迄茂国府里村一切差寄間敷候。次ニ野銭之義国府里村可相納由申上候得者早速差出シ遅々仕間敷候。若、重而右躰之儀及出入候ハヽ、御科被 仰付旨被 仰渡、双方奉畏候。仍而一札差上申所如件。
元文三年午七月十八日
松平中務大輔知行所 上総国長柄郡山根村
名主 与次右衛門
水野左門知行所 同国 同郡 同村
名主 与市
水野三之助知行所 同国 同郡 同村
名主 新左衛門
戸塚門五郎知行所 同国 同郡 同村
名主 喜惣次
筑紫宇兵衛知行所 同国 同郡 同村
名主 仙右衛門
曲淵与左衛門知行所 同国 同郡 同村
名主 次郎左衛門
大井庄十郎知行所 同国 同郡 同村
名主 太郎左衛門
武田主殿知行所 同国 同郡 国府里村
名主 金兵衛
組頭 嘉右衛門
同 与惣兵衛
同 太郎兵衛
同 半兵衛
御奉行所様
(16) 国府里区有文書
(17) 刑部 村上忠義家所蔵
上総国市原郡新巻村与同国長柄郡刑部村
社地并秣場論裁許之事
新巻村訴訟、元来当村秣場之内を刑部村江貸し、浅間宮建させ置候所、此度修復与称し大木七拾本程伐採候。寛文裁許之通下草計刈採、向後、立木不伐荒様に致し度旨、訴え、刑部村答趣、浅間之社地古来より刑部村地内取支配祭礼仕来、棟札にも刑部村与記候。先年出入の所者地所相違候。只今迄宮修復に社木遣ひ来候間、新巻村不相障様に致度旨、答え、右論所就不分明、御代官堀江清次郎・大塚彦六両手代差遣令地改処、浅間宮社地無証拠にて、両村申分就難取用、山境之儀近村江相尋候得者、往古より峯弦或ハ谷沢を境に相定候旨、申之、論山巳より戍江峯弦分明に相立、南ハ新巻村北は刑部村地内に無紛相見候。然処、峯弦を打越新巻村内江踏込立木伐採候儀、刑部村之者共理不尽之至也。其上、荒畑之儀刑部村難申立、其証拠無之、新巻村数年所持仕来上ハ新巻村之地所に相決候。勿論、つくみ野より新巻村宇津木谷迄之境互雖相争、是又双方無証拠候。依之、今般峯弦谷限之法を糺、絵図面之通南方浅間原・天神之台・流之作ハ巳方より戍方迄峯弦を見通し、夫より新巻村内鳥居坂新古之畑際通りつくみ野迄者有来境に随ひ、北方つくみ野・上人作・井之森ハ申方より寅方まで宇津木野通り谷間を見通し、新巻・刑部両村野山境相定之、浅間宮刑部村より支配祭礼仕来候儀者如先規たるへし。但、社回り木立有之所ともに百七拾歩ハ社地と極、自今双方一切不可差寄。右社地与野境ハ可致掘切候。且又、刑部村伐採候松木三百本ハ入札を以売払之、右代金双方立合致封印、別当慈眼寺預り置、宮修復之節双方申談右入用に可仕候。尤、向後修復に付、社木伐採候ハヽ、是又両村立合相談之上可伐採之、秣場之事、新巻村申所ハ、刑部村為入会候野ハ浅間宮続野計之由、刑部村申趣ハ、浅間野天神之台・流之作・井之森・津くみ野・上人作以上六箇所江野銭差出し入会候由、相争、右之訳請刈之村々相尋候得者虚実相知連候旨刑部村申之、新巻村ハ請刈之村江相尋候儀差許候様ニ申之、然上者新巻村申分難立、刑部村前々より入会たる事分明候条、右六箇所江可入会候。右之通、衆議之上裁判之畢。仍為後証絵図面野山境引墨筋、各加印形令裏書、双方江下授条、永下可再犯者也。
寛保三亥歳九月二十五日
萩 伯耆印
木 伊賀印
御用方無加印 水 対島
御用方無加印 神 若狭
御用方無加印 神 志摩
嶋 長門印
石 土佐印
山 因幡印
大 越前印
本 紀伊印
堀 相模印
(18) 刑部 村上忠義家所蔵
(19) 刑部 村上忠義家文書
(20) 刑部 村上忠義家文書
(21) 刑部 内藤正雄家文書
(22) 刑部 内藤正雄家文書
差上申済口証文之事
上総国長柄郡針ケ谷村役人惣代名主金右衛門外壱人与、同郡篠網村名主常次郎外九人江相掛候秣場出入、去卯年七月中服部伊賀守様御勤役中奉出訴、同八月十三日御差たし御尊判頂戴相附、相手方よりも返答書を夫々差上御吟味中御転役ニ而、遠山左衛門尉様江御引渡ニ相成御吟味中之処、御日延奉願上、熟談内済仕候趣意左ニ奉申上候。
一、右出入双方得与懸合候処、六地蔵村地元秣場二ケ所有之内、今般之論所字ごーじ谷之儀者、正保・元禄再度御裁許絵図ニ御書載有之候得とも、心得方違ニ而既出入と相成、訴訟方ニ而ハ、往古より六地蔵村江野手として籾八斗宛年々差出し候上ハ、秣場弐ケ所とも針ケ谷村一手持と相心得、相手方ニ而ハ、論所ごーじ谷ハ針ケ谷・篠網・初芝三ケ村入会野与心得、初芝村ニおゐてハ、是迄入会苅取候儀是無趣申立一同争論中、地元六地蔵村役人并長柄山役人とも被召出、御吟味中及懸合、訴訟方ゟ六地蔵村江差出候籾八斗之内、針ケ谷村ニ而七斗差出、篠網村ニ而壱斗差出、年々両村より地元江相納、針ケ谷村・篠網村両村入会苅取相極、初芝村ニ而ハ申立通不苅入、且又、前書秣場二ケ所之内論外字物王坊之儀ハ、六地蔵野手山与御記有之上ハ、針ケ谷村一村持限りニ無相違段御趣意相分り、次ニ、訴訟方 之内野を孕字栗林与唱候畑続三ケ所之内、二畝歩之畑地ヲ相手方踏荒差留、しかも致通行候段心得違相弁、訴訟方江被相詑候ニ付、格別之勘弁を以前書二畝歩之畑年貢之内、為助合与鐚三拾文宛永久とも年々篠網村より針ケ谷村役人江差出、畑 同村一統無万障、人馬往来通行為致筈永極、其外申争 ハ相互勘弁いたし、一同聊無申分熟談内済仕、偏御威光与難有仕合奉存候。然ル上ハ、右一件に付重て御願筋無御座候。依之済口証文奉差上候処如件。
大井主計、岡部左京知行所
上総国長柄郡針ケ谷村
役人惣代
肥田豊後守知行所
同村名主
文政三辰年四月 訴訟人 金右衛門印
布施藤兵衛知行所
同国 同郡 篠網村
名主 常次郎
組頭 三次郎
同 次郎右衛門
百姓代 重兵衛
沢弥兵衛知行所
同村名主 源右衛門
組頭 市右衛門
相手 百姓代 清兵衛
岡松八右衛門知行所
同村右惣代 源右衛門印
布施藤兵衛知行所
右篠網村組頭 良助印
山本七十郎知行所
同国 同郡 六地蔵村
引合人 名主 与八印
同 知行所
同国 同郡 長柄山村
名主 利右衛門印
御評定所
前書之通及取替置ノ事
(23) 刑部 田中早苗家文書
(24) 刑部 村上忠義家文書
(25) 刑部 村上忠義家文書
(26) 刑部 村上忠義家文書
乍恐以書付御訴訟奉申上候
小笠原重左衛門組
御先手同心方給地
上総国長柄郡刑部村
字辺田谷、同三沢谷百姓惣代
訴訟人 藤七
同 市兵衛
地所出入
同組 同給地
同国 同郡 同村
相手年寄 市蔵
林半太夫様御知行所
同国 同郡 同村
相手組頭 政次郎
同 同 長兵衛
同 同 清左衛門
同 同 六兵衛
右訴訟人藤七・市兵衛奉申上候。私共村方之儀ハ七給入会ニ而、林半太夫様・布施藤兵衛様・瓦林鉄五郎様・沢弥兵衛様御知行所右四給村役人共より村方百姓持山并秣場等地境不分明之場所相見江候由ニ而境引可致旨、私共地頭所鵜飼邦五郎様・駒井半蔵様御知行分共三給村役人共江掛合候ニ付、右者夫々境等も相分り居候場所、自己ニ境引等者難致候間、銘々地頭所江伺之上孰とも可致由及挨拶候所、相手之内、林半太夫様御知行所組頭四人之者共重立以の外憤り、外三給役人を相勧メ荷担いたし、私共方三給相手取出訴ニモ可相成処、其節隣村拾壱ケ村総代鴇谷村名主金兵衛、林半太夫様御知行分神職月岡伊予、私共同給年寄佐吉親次郎左衛門、右三人扱ニ立入、古来有形ヲ不失、見計候を以境筋可取調対談ニ而内済仕候段、私共地頭所御年番様迄村役人どもより伺候得者、御年番様より被仰渡候ニ者、御給地百姓五拾四人之内訴答之者有之由不宜叓故、和熟之上農間を見合、不相分場所は水帳ニ引当、植合を以相調候様年寄市蔵江御書付被下置候故、百姓一同奉畏、熟談之上連印仕、則同人方江預ケ有之候。然ル処、名主・年寄迄同人ニ組シ、相手四給村役ニ馴合、地頭所被仰渡ニ背、農業無寸暇時節、剰当丑四月九日より境改ニ取掛リ、扱人金兵衛儀ハ歩役人足ヲ私共ニ相当、日々駕籠ニ乗歩行遠見致、扱人共一同馴合与相見江、相手之者共勝手儘境ヲ引、百姓所持之山々屋敷内山谷限り社地共、大小之立木地所とも秣場之由強勢申張、九分通り奪取、残り一分ハ立木も無之場所茅野而已私共江相渡、反畝歩打結境塚築立候儀ハ新繩竿入同様之致方、猶亦、相手四ケ谷之内、月川谷之分而已相改候得共、是迚も残シ置候場所も有之、篠網・稲塚・吹谷三ケ谷分者一向相改不申儀ハ難心得儀故、右之趣及掛合候処、彼是申均し境引ニ准、右場所盛木茂り候を大金と見込、凡て弐拾ケ所程可奪取巧ニ而、村役人共欲精ニ耽り、境目暦然と相分り候場所文禄年中村方一躰ニ御繩受以来、夫々進退致来候地所無謂挾取、其上山主壱人別ニ呼出し、押而印形可致旨申之、若不承知之者有之候得者、多人数ニ而手込ニも可致躰ニ立騒候間、其威ニ恐、且者不法之致方心外ニ存可願立存寄之ものも御座候而も、素より困窮之者ニ候得者多分之入用難出来、無是非一同調印仕候得共、全納得之者壱人も無之候。一躰私共村方之儀ハ、外稼無之、農間冬春共炭薪伐取暮し致、御年貢諸役之足合ニ致来候処、去子十二月ゟ右様企候含有之候哉、相手之者重立外三給相加り、日々山番相附、私共山稼差留、自分組下のものニは勝手儘ニ為相働候間、右次第難心得旨申断候得者、強精而已申張取敢不申、右境引之儀も農間ニ可致候処、四月・五月者百姓無暇節、肥草・麦作苅取迄被差留、境引人足ニ私共日々罷出候間、麦作取入相おくれ蘗穂ニ相成、私共両谷百姓とも当時夫食ニ差詰り、其上右様山稼迄被差留候間、百姓一同困窮ニ落入難渋当惑仕り、既ニ此節右一件ニ付、鵜飼邦五郎様御知行所名主次郎右衛門煩ニ付代兼忰名主見習丈助義、先月九日林半太夫様御知行所組頭四人之者相手取、内藤隼人正様江奉出訴候、願之義は、私共願同様之筋御座候間、何卒格別之以御慈悲右丈助御願被御差加、御吟味被成下置、前書被奪取候地所・立木共、古来有形之通り境目相守り置而、右躰不法難題不申掛、無難ニ百姓永続相成候様被仰付被下置度奉願上候。尚、子細之義ハ、御尋之節乍恐口上ニ而可奉申上候。以上
(26) 林寿祐家文書『千葉県史料』近世編所載
(27) 刑部 内藤正雄家文書 千葉県史料近世編所載
(28) 刑部 内藤正雄家用留
(29) 田代 田代家文書
差上申一札之事
一、私共出入被為遂御吟味候処訴訟之儀相対之上六地蔵村へ差出候助合人馬同村名主問屋共年来過高触当候段者御吟味之上無相違候得共右触当方疑敷心附候ハヽ得与相糺可申処等閑之掛合致置年来其儘ニ而助合候分者今更ニ相成右過高ヲ以触当候分相手方より償候儀致度由之申分は難立其外御年貢津出し之節者六地蔵村五郷組合ニ而人馬継立不足之節は助合人馬百石弐疋之割合ヲ以触当御私領米売荷物等之儀者不助合仕来之由相手方申立候義者彼是可申立筋ニ無之且和田村田尾村山小川村之儀も享保元文寛保之度六地蔵村より助合人馬触当候節夫々人馬差出候節之諸賃銭請取帳ニも一同調印形有之上者助合村々ニ無之由之申分難立依之以来御年貢者勿論外継立之儀も助合村々一同和融致差支無之様程斗ひ可申儀被仰渡候
一、相手方のもの共儀長柄山村外五ケ村内田村外三拾ケ村高帳之由申立帳面江印形取置候儀ニも無之全自己之書留ニ候ハヽ高帳之由者申分難御取用既ニ内田村高千六百五拾石余ニ候処弐千六百石之記有之候迚得与糺不致前々之程斗ひとハ乍申右躰過高ヲ以助合人馬触当候段不埓ニ付名主問屋過料銭五貫文宛被仰付候
右被仰渡之趣一同承知奉畏候且過料銭者三日之内大貫次右衛門様ヘ可相納旨是又奉承知候若相背候ハヽ重科ニ可被仰付候仍而御請証文差上申所如件
享和三亥五年月四日
伊丹駒次郎知行 上総国市原郡内田村
訴訟方 村役人惣代名主 利助
山本平六郎知行 同国 長柄郡六地蔵村
相手方 名主文蔵煩ニ而代兼問屋 弥兵衛
御吟味ニも被召出
滝川小右衛門御代官所
斉藤鎌次郎知行
外四拾壱給同郡長柄山村
外三拾五ケ村役人惣代
斉藤鎌次郎知行
笠森村名主 兼右衛門
山本平六郎知行
中之台村名主 太郎右衛門
小柴平吉知行
川在村名主 長重郎
御評定所
右者石川左近将監様御掛ニ而御裁許畢
(30) 山根 道脇義治家文書
乍恐以書付御訴訟奉申上候
服部一郎右衛門、石丸檀六郎、塩入大三郎、
有泉太郎左衛門知行所 上総国長柄郡茂原村
右四給村役人惣代
服部一郎右衛門知行所 同国 同郡 同村
訴訟人名主 清右衛門
有泉太郎左衛門知行所 同国 同郡 同村
訴訟人名主 三郎左衛門
仕来相破品々不法之取斗致候出入
松平弾正大弼様御領分 同国 同郡 山根村
名主 藤右衛門
水野伯耆守様御知行所 同国 同郡 同村
名主 孫平
戸塚豊後守様御知行所 同国 同郡 同村
名主 孫右衛門
筑紫佐度守様御知行所 同国 同郡 同村
名主 民蔵
水野左衛門様御知行所 同国 同郡 同村
名主 新左衛門
曲淵与左衛門様御知行所 同国同郡 同村
名主 平左衛門
市岡左膳様御知行所 同国 同郡 同村
名主 次兵衛
曲淵大学様御知行所 同国 同郡 同村
持添 名主
安藤増五郎様御知行所 同国 同郡 同村
年番名主 甚蔵
同 御知行所 同国 同郡庄吉村
年番名主 惣右衛門
武田与左衛門様御知行所 同国 同郡 同村
組頭 文右衛門
同 御知行所 同国 同郡力丸村
名主 四郎兵衛
伊沢助三郎様御知行所 同国 同郡 同村
名主 伊兵衛
村上荒五郎様御知行所 同国 同郡 真名村
名主 図書
曲淵大学様御知行所 同国 同郡 同村
名主 八郎右衛門
宅間与右衛門様御知行所 同国 同郡 同村
名主 九兵衛
御手洗五郎兵衛様御知行所 同国 同郡 同村
名主 斧右衛門
山下金之助様御知行所 同国 同郡 同村
名主 与惣右衛門
飯田大三郎様御知行所 同国 同郡味庄村
名主 八郎右衛門
戸田又兵衛様御知行所 同国 同郡 同村
名主 伊兵衛
桜井〓五郎様御知行所 同国 同郡芦網村
名主 源右衛門
酒井作右衛門様御知行所 同国 同郡 同村
名主 利右衛門
内藤免八郎様御知行所 同国 同郡黒戸村
名主 六郎左衛門
同 御知行所 同国 同郡大登村
名主 新兵衛
大井新之允様御知行所 同国 同郡千代丸村
名主 太郎兵衛
永井鉄弥様御知行所 同国 同郡国府里村
名主 市郎右衛門
永井一学様御知行所 同国 同郡 同村
名主 太郎兵衛
右訴訟人名主清右衛門同三郎左衛門奉申上候当村之儀ハ四給入会村高纔弐百九拾石余至而困窮ニ者御座候得共天正年中御検地入被仰付当国四方并安房国ゟ江戸往還之継場ニ而親村与唱前書山根村外弐拾四ケ村ニ而助合往古ゟ御用御通行之砌人馬無滞差出来延享天明両度御巡見被為在其節右村々ゟ助合人馬差出仍之右助合村々ニ抅り候諸入用之儀茂当村共弐拾六ケ村ニ而割合是又村々ニ而出金致来り公私用共従来聊無差支不難ニ継場相続罷在候旧例を守組合之内高師村外拾ケ村之儀ハ今以触当通り人馬相勤諸入用割合通り出金仕候得共相手村々之儀者中[ ][ ]人気不宜罷成就中同郡一ツ松郷ゟ御城米附越之儀先年ゟ当村ニ而継立夫ゟ六地蔵村江附送り来候処寛政年中竹垣三右衛門様滝川小右衛門様両御代官所之節右三右衛門様御手代衆御回村之上已来者当村高師村両村ニ而引請年々継立可致被仰渡之儀相守依之六地蔵村江附送り候人馬不足之節者助合村々江人馬触当候処小林村拾壱ケ村之者共ハ何れニ茂篤実ニ御座候間触当通り年々人馬無滞差出候得共相手村々者共儀ハ故障申出御城米附送り差支既ニ御糺ニ茂可相成処親村之儀ニ付難見遁私共村方ニ而立入申諭助合人馬為差出候様取計遣候深切を却而何様心得違候歟右村々役人共其砌ゟ当村ヲ疎物毎不平ニ押移り国府関真名両村重立往々助合ヲ可相離巧ヲ以種々目論見致割合出金滞候而已ならす助合ニ者無之抔流布仕候段相聞難心得其上人馬触当候得者及遅刻度々迷惑致候儀間々有之且又関東在々為御取締御回村被拵候御出役様方町御奉行様御組火附盗賊御改方其外臨時御用御出役様方御通行之節諸入用年々出銭可致割合之儀茂兎角彼是差〓候叓柄追年増長仕当拾壱ケ年以前戍年ゟ亥年迄拾ケ年之間一向不差出其上国府関村ハ当村五郷ニ乍在都而仕来相破難得其意及懸合候処是以山根村其外一致罷在候ニ付我意而已申募り頓着不致親村之詮不相立第一万叓差支勝ニ而難渋至極ニ付早速其段申立御訴訟ヲ茂可奉申上処差当諸雑費難渋仕勿論年々及掛合候儀ニ者候得共拾ケ年余茂相過置候段者全等閑之取斗方奉恐入候儀ニハ御座候得共此上右躰出銭等閑相成候而ハ小高困窮之村柄故甚以難儀仕殊ニ来酉年乍恐日光山
御参詣被為拵候ニ付助合加助有之村々ハ夫々可書上旨被仰出右印状当三月中当村江順着拝見仕候処組合村々之内高師村外拾弐ケ村之儀ハ茂原村助合ニ而高師村江茂人馬差出候旨之下札致相手方之儀者拾弐ケ村一組ニ而安永之度
御社参之節真名国府関両村ニ而引請御用相勤外宿江ハ人馬差出不申旨先達而中下札致差上候ニ付先例与齟齬致候段懸合候処不取敢且右村外同郡箕輪村之儀茂同様下札仕候ニ付是又及懸合候処心得違之旨ニ付一札取置候得共外相手村之儀ハ旧来之助合為可引潰我意押通シ候儀ハ畢竟窮村愚眛与見掠前書不正之書上仕候相違無御座夫形差置候而ハ此上如何様之儀取巧可申茂難斗第一御用御継立差支且ハ組合村々之親拒ニも抅り一村相続難相成候ニ付無是非今般御訴訟奉申上候何卒以御慈悲ヲ相手名前之者共被召出前書始末逸々御吟味被仰付向後仕来相守組合弐拾六ケ村割合出銭ヲも差出無難ニ継場永続罷成候様被仰付被下度偏ニ奉願上候以上
服部一郎右衛門、石丸檀六郎、有泉太郎左衛門、塩入大三郎知行所 上総国長柄郡茂原村
右四給役人惣代
服部一郎右衛門知行所 同国 同郡 同村
訴訟人名主 清右衛門
有泉太郎左衛門知行所 同国 同郡 同村
訴訟人名主 三郎左衛門
御奉行所様
如斯目安差上候間致返答書来ル九月十三日評定所江罷出可対決若於不参ハ可曲事者也
申七月廿二日(注文政七年と推定)
(筆者注)
主水 (勘定奉行 石川主水正忠房)
豊後 ( 〃 曾我豊後守助弼)
御用方無加印
左衛門( 〃 遠山左衛門尉景普)
御用方無加印
淡路 ( 〃 村垣淡路守定行)
伊賀 (江戸町奉行 筒井伊賀守政憲)
主計 ( 〃 榊原主計頭忠之)
豊前 (寺社奉行 本多豊前守正意)
摂津 ( 〃 太田摂津守資始)
左近 ( 〃 水野左近将監忠邦)
伯耆 ( 〃 松平伯耆守宗発)
(31) 火附盗賊改は、火災の予防、盗賊の逮捕、博徒の取締りを主とする、町奉行とは別個の独立した機関である。
(32) 文政八年(酉年)の日光社参は、実施されなかった。
(33) 田代 鶴岡仁一家文書
乍恐以書附御訴訟申上候
上総国長柄郡田代村
大久保三之助知行所
水野藤八郎知行所
訴訟人 治郎左衛門
同 仁兵衛
同 孫兵衛
越石出入
同国 同郡 刑部村
二之御丸 御同心衆様御知行所
相手名主 重郎右衛門
同 同 伊兵衛
右田代村治郎右衛門仁兵衛孫兵衛其外越石百姓共申上候拙者共拾七人刑部村之内ニ高拾三石目余ニ而田地弐町弐反三畝歩古来ゟ越石ニ所持仕来御年貢御上納仕候他村之儀ニ御座候故刑部村伝右衛門与申者前々ゟ相頼名主方ゟ之御免定之写シ御年貢割付御蔵前請取証文高役諸色相勤させ申候右役請負代米四俵余宛年々相渡シ勤来申候然処享保四亥之年刑部村惣百姓共仲間ニ而田代村分之役儀伝右衛門相勤不申候間田代村之者役儀相勤候様申来候間伝右衛門方取放シ亥子両年田代村越石百姓御役義相勤申候然処右伝右衛門御地頭様江御願申上候故享保五子十二月十九日御地頭様江拙者とも被召出被拵御意候様者此度伝右衛門願候儀者田代村之役儀被相頼候処引はなされ 申候由願候間毎度之通頼候様ニ可仕与被仰付候得共拙者共困窮百姓之儀ニ御座候得者役米出シ候儀茂 仕候段申上候然共達而頼候様被仰付候故又々伝右衛門相頼右拾三石目余之越石高役諸色共請負役米請取可申旨証文取伝右衛門相頼申候其後巳春中御地頭様ゟ御用金被仰付候処諸色頼置候故御用金伝右衛門方ニ而差出申候当閏正月御用金被仰付候故其段伝右衛門方江申遣候得者右御用金出申儀成申間舗申候故御地頭様御用茂かけ如何と奉存御割付之通金壱両弐分銭弐百六拾八文越石拾三石之百姓ゟ差上申候右之通伝右衛門約束相違仕候故右頼置候ヲ取放シ刑部村名主伊兵衛重郎右衛門方江右段々之儀申達シ此後御役儀如何様之儀ニ而茂家々共ニ被申付候様ニ閏正月廿三日名主衆江申達候御事
一、当正月朔日ニ刑部村名主衆拙者共江被申聞候者此度御地頭様ゟ御召被拵候付来ル六日江戸江罷出候様ニ被申付候間則四人罷出候処御地頭様被仰聞候様者此度用金申付候処ニ伝右衛門出シ不申候間其方共出候義伝右衛門不届候然共伝右衛門役儀請負候儀ハ八ケ年以前此方ニ而直々申付候義内証ニ而引はなし候義不届成儀与被拵御意候右伝右衛門約束相違御用金出不申候間取放シ刑部村名主衆江委細ニ御断申達候旨申上候御事
一、右越石高拾三石目余之内四郎右衛門所持仕候田壱反廿歩同源右衛門所持仕候田壱拾反弐歩刑部村之内彦兵衛伝三郎両人方江十ケ年季ニ質地ニ売渡申候付名主両人方江相断候処其方共勝手次第与申ニ付孫兵衛権三郎判形ニ而証文仕無何事罷有候処ニ名主両人如何様之意趣有之候哉御地頭様江越石田地我儘ニ売払申候旨色々謀計申上候歟越石拾三石余之所不残右田地売渡申候金子差添相渡候様ニ申越候不存寄難題申儀ニ候間難心得存御地頭様罷出様子窺申上候得共名主方ゟ如何様之儀申上置候哉御取上ケ茂無御座大勢之者難儀仕候御事
右之通少茂相違不申上候右越石之百姓古来ゟ所持仕来候所名主両人以巧ヲいわれもなく取上可申[ ]無御座奉存候間以御慈悲ヲ名主重郎右衛門伊兵衛被召出御詮儀之上古来之通拙者共越石無相違所持仕候様被為仰付被下置候者難有可奉存候以上
享保十二年未二月廿六日 訴訟人 治郎右衛門
同 仁兵衛
同 孫兵衛
御奉行所様
(34) 針ケ谷 小倉喜与巳家文書
差上申済口証文之事
上総国長柄郡初芝村名主栄次郎ゟ同国同郡刑部村名主喜代次郎外壱人江相掛難渋出入去る十二月中
久須美佐渡守様江奉出訴当二月廿五日御差日御尊判頂戴相付御吟味中扱人立入双方篤与及掛ケ合熟談内済仕候趣意左ニ奉申上候
一、右出入訴訟人名主栄次郎申立候者当村高五拾五石余御座候処最寄拾七ケ村組合相手刑部村親村与相唱ひ御用筋之儀者相手喜代次郎引請弥兵衛倶々世話致諸入用之儀者村々役人立会勘定仕来候然ル処当三月中小金原御鹿狩御用ニ付諸入用割合出金可仕旨同六月朔日相手弥兵衛ゟ申来候ニ付同人方江罷越遣払巨細帳披見為致呉候様申聞候処右者喜代次郎壱人ニ而割合勘定いたし候間巨細帳は同人方江罷越披見可致旨弥兵衛申之ニ付同月十日喜代次郎方江弥兵衛同道罷越御鹿狩入用遣払帳披見之上得与相弁出金致度旨掛ケ合候処喜代次郎申聞候者追而巨細帳者弥兵衛方江相渡し同人ゟ披見可致旨申聞其後喜代次郎ゟ披見難為致旨断有之何分難心得乍併遣払帳披見不仕候上者出金難相成右躰小村与見掠勝手儘之割合等被致候而者向後何様取計致哉難計依之巨細帳披見為致呉候様再応掛ケ合候得共彼是申紛取敢不申候ニ付組合村々役人方江罷越銘々存寄承り候処右は遺払巨細帳披見も不仕甚割合方難心得存候得共出金茂仕候上は今更同意いたし候儀相成兼候旨一同申之相手喜代次郎ニ品能被相欺同人者親村之儀ニ付万端為相任置候間喜代次郎相泥取計候儀与奉存候且此上何様勝手儘之儀相勤候哉茂難計依之御鹿狩入用遣払巨細帳披見之上出金致度旨其外品々訴上且相手喜代次郎方ニ而者当村之儀者高八百五拾石余七給入会ニ而御用村用之儀者月番立置取計拾七ケ村寄場親村与唱ひ都而組郷江相掛り候御用筋之儀は拾七ケ村之内上組六ケ村小惣代大津倉村名主与右衛門中組五ケ村小惣代針ケ谷村同弥兵衛下組五ケ村小惣代徳増村同八兵衛当村元大惣代半兵衛私共都合五人ニ而取計来候処去ル天保十五辰年十月中右半兵衛儀子細有之退役被申付候得者右与右衛門外三人ニ而相勤罷在候然ル処去々申年十月十三日御鹿狩御用として満岡雄太郎様同国市原郡五井村江御出役之上猪鹿其外生捕御用被仰付候得共当村々之儀者猪鹿等居籠候儀見請不申御用御差支ニ相成候而者奉恐入候儀ニ付御請難相成趣申立候処厚御利解ニ付猪鹿之内壱疋兎弐疋御請仕組郷村々役人共集評之上兎之儀者村々ニ而生捕ニ致候与も猪鹿之儀者房州最寄ニ無之候而者手ニ入申間敷旨談判中幸ひ当村ニ猟師渡世いたし候もの有之候ニ付買求ニ差遣呉候様組合村々役人一同達而相頼候ニ付夫々手当いたし漸々去る正月中女鹿壱疋相求来候折節御鹿狩御掛り御役人中様御回村ニ付其段御届申上飼置候処翌二月中右女鹿相果候間御鹿狩御用御役所江御訴申上尤兎弐疋御請仕候得者八疋ニ致し小金野原江持送り御用弁ニ相成右諸入用仕来り之通高ニ割合可致筈ニ而前書惣代もの共組々村役人立会割合一同調印之上同年六月十日相集候筈取極置候処拾七ケ村組合之内拾六ケ村者組々ゟ出金持参いたし尤中組五ケ村之内四ケ村分弥兵衛持参いたし候節訴訟人栄次郎ヲ同道私方江罷越初芝村之儀者巨細帳披見之上出金可致趣ニ付同道いたし候由申聞候間早速本帳相見セ候処無筆同様ニ付巨細帳仮名書ニ認渡呉候ハヽ篤与屈伏之上出金可致抔不当之儀申張り立帰り候後無沙汰ニ付諸勘定差支ニ茂相成候間立替置同七月十五日組々惣代共出会之砌右之段申聞候処外村々之響ニ茂相成難捨置出訴可致旨一決仕候得共纔鐚弐〆百七拾五文之出銭不差出候迚出訴致候而者小村と見掠候姿ニ相当[ ]無滞出金致候村々江入用相掛ケ[ ]不穏成儀ニ付[ ]割合迄差扣居弥不差出候ハヽ其節出訴致候筈ニ而其儘ニ致置候処同年十月十六日訴訟人栄次郎儀前書弥兵衛方江罷越右出金分差出候間同道致呉候様申聞候由ニ而両人亦々私方江罷越候処栄次郎儀如何相心得候哉右割合出金之儀者不申聞却而私弥兵衛両人江悪口雑言申[ ]剰割合出金一切難差出間勝手次第ニ可致左も無之候ハヽ此方ゟ出訴いたし候抔以之外成不法申募立帰無程私共相手取[ ][ ]池田播磨守様江奉出訴候由然ル処翌十一月廿日頃帰村致[ ][ ]御奉行所ゟ被仰付候趣ヲ以同意可致旨組々村役人共江勧歩行候得共全割合方[ ][ ]筋無之ニ付一統不承知ニ而相断候を意恨ニ存私共江馴合候趣無[ ]形も申掛ケニ御座候一躰栄次郎儀者小村ニ者候得共度々御尊判頂戴公事馴居候ものに御座候間今般之次第も品能書餝奉出訴段難心得奉存候右躰之もの其儘ニ致置候而者其村々響ニ茂相成取締方ニ相拘候儀之旨其外品々答上猶相手之内弥兵衛方ニ而者当村之儀者六給ニ而高六百六拾石余有之最寄組合拾七ケ村ニ而仕来之儀者前書喜代次郎申上候通相違無御座候然処去る三月中御鹿狩御用諸入用割合之儀同五月中組合村々惣代一同相談之上割合仕同六月朔日私共小組合五ケ村役人共出会仕一同承知致罷帰り候処同月十日栄次郎儀私共方江罷越前書割合金之儀者喜代次郎方ニ而早速可差出候間同道致呉候様申之ニ付任其意同道ニ而同人方江罷越候処栄次郎儀如何ニ心得候哉巨細帳披見之上仮名書ニ認相渡呉候抔存外之難題申掛ケ彼是混雑いたし候得共私始惣代共立会割合本帳披見之上ハ[ ]出金可致旨申聞候処一円取敢不申引取候後等閑置候ニ付私組内初芝村而已相滞居外村々江対し如何ニ存候間同七月十六日私方江栄次郎呼寄及掛ケ合候処割合等不差出候間勝手次第可致旨之挨拶ニ而罷帰り彼是打過候内同十月十六日栄次郎儀私方江済方可致旨猶又喜代次郎方江同道いたし呉候様申聞候故一同罷越候処此度茂私ヲ欺矢張前同様出金等茂不仕却而喜代次郎江品々難題申掛ケ何故是迄入用不請取候哉小村与見掠候取斗方抔与不取留悪口申募剰喜代次郎倶々私ヲ茂相手取可及出訴旨不法申掛ケ更々聞入不申今般之次第至り奉恐入候一躰栄次郎儀者平日事好ニ而万端謀計取巧組合村々一同難渋いたし既ニ此度之儀茂組々惣代立会連印巨細帳ヲ喜代次郎壱人ニ而割合致候由私ゟ相[ ][ ]いたし候抔与愚昧之私与見掠偽而已書餝奉出訴候段難心得旨答上申畢御吟味中訴訟方ニ而遣払巨細帳披見致自分写掛ケ紙いたし猶御吟味中扱人立入得与懸ケ会候処去る酉年
御鹿狩諸入用遣払等之儀前々之通今般拾七ケ村組合内刑部村者勿論上組中組下組共惣代立会勘定致候義者喜代次郎ゟ夫々遣払之分者順々記帳ニ付月々聊前後無之尤外村役人共差掛ニ取替置候分月々前後之場合茂有之殊ニ双方談合不行届候故今般之次第ニ相成候得共双方折入而掛ケ合候処相手方ニ而不都合之取計無之段相分村々ニ而茂稀成御用筋御差支不相成御用弁ニ茂相成訴訟方ニ而[ ][ ][ ][ ]候ニ付割合之通訴訟方ゟ出銭致行違[ ][ ]合之廉々者扱人貰請向後相互ニ[ ]間敷可致旨及示談一同聊無申分熟談内済仕偏ニ 御威光与難在仕合奉存候然ル上者右一件ニ付重而御願筋毛頭無御座尤組合村々之儀者関東御取締御用ニ限り候儀ニ有之候処御鹿狩御用之儀を茂右組合ニ而取計候段心得違之旨御利解之趣相弁外村々江茂申通置候様可仕候依之為後証連印済口証文差上申処如件
斉藤久右衛門知行所 上総国長柄郡初芝村
役人惣代
嘉永三戍年六月 訴訟人 名主 栄次郎
鵜飼邦五郎、大谷満三郎知行所
同国 同郡 刑部村邦五郎知行分
相手 喜代次郎
大井新右衛門知行所 同国 同郡針ケ谷村
同 弥兵衛
御奉行所様
前書之通内済仕候間為後日為取替置申候以上
右 栄次郎印
喜代次郎印
弥兵衛印
大津倉村 与右衛門印
小榎本村 周右衛門印
(35) 刑部 池座竜一家文書
郷土の交通