徳川氏の覇権が成立してから二百数十年間太平の世が続き、商工業は活気を呈し、都市が発達し、人馬・貨物の往来が盛んになった。交通の発達は著しく、五街道をはじめ、これに続く脇街道には宿駅が整備され、旅人や貨物の継立(つぎたて)が活発に行なわれた。五街道と、それに付属する脇街道は幕府が直轄し、道中奉行の支配下に置いた。房総の地でこれに該当するものは、水戸道と佐倉道である。しかし、道中奉行の支配を受けたのは、水戸道では江戸から松戸まで、佐倉道では八幡(現市川市)までであった。
江戸時代の交通史研究は、主要街道の宿駅・駅伝・助郷・飛脚制度などに集中し、名もない往還(おうかん)のありさまは余り究明されていない。しかし、いかなる地方の脇往還(わきおうかん)であっても、米穀や商(あきない)荷物の輸送、巡見使その他の公用者の通行、商用・信心・物見遊山(ものみゆさん)等の旅人の往来があり、そこには、問屋も旅宿もあったはずである。また、人の住む所、人道・農道・山道などがあり、その開発や維持のため先人は汗を流したと考えられる。このような観点から、郷土の交通のありさまをさぐってみたい。