1 房総東浜往還(ひがしはまおうかん)と中往還

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 享和元年(一八〇一)の助郷出入(すけごうでいり)の一件控帳(1)に、六地蔵村問屋弥平次なる者が、「当村之儀は、東浜往還中継場(ひがしはまおうかんなかつぎば)ニて……」御城米や私領年貢米の継(つぎ)送りだけでなく、売荷(うりに)の輸送もきわめて頻繁である、と述べている。一宮方面から茂原―六地蔵―潤井戸―浜野へ通じる通は、房総東浜往還と唱え、東上総の貨物の輸送や人の往来でにぎわっていたことを示している。地理的にみても、東上総から江戸へ出るには、この道路がもっとも便利であったことは明らかである。この街道を、地元の人々は、茂原道あるいは江戸街道ともいい、道幅は二間一尺であったと古老は語っている。
 一方、勝浦から大多喜・長南を経て鴇谷から長柄山に至る道もまた重要な街道であった。大多喜城には、家康のとき本多忠勝が配置され、その後も、代々譜代の重臣が封ぜられ、半島部の要衝として重視されていた。郷土の人々は、この道を大多喜往還または房総中往還と称した。ただ、大多喜以南は悪路であったらしく、明治以降の記録(2)でも「浜野より勝浦に至る延長拾五里五町弐拾間壱尺、路大抵山谷に属す。大多喜以北は近時改良を加うといえども、大多喜以南は険悪旧の如し。」というありさまであった。
 天保一三年(一八四二)の潤井戸村と、その助郷村々との争論の訴状(3)に、埴生部・長柄郡の村々から、毎年一一月に御城米を千俵も継立て(運送)している旨を述べている。その一部は、この中往還を通って運ばれたのであるが、その中継場は長柄山村で、上りは潤井戸村へ、下りは長南宿へ継立てていた。
 このように、房総東浜往還と中往還は、半島中央部の動脈であった。東浜往還は、六地蔵から道脇寺―内畑をまわり鼠坂に下ったものであり、中往還も「針ケ谷坂隧道有り」(4)というありさまで、今針ケ谷坂に沿って残された旧道をみても、かつての険路がしのばれる。この二街道は追分で合し、潤井戸村を通り、陸路は千葉寺から幕張―船橋―市川または行徳を経て江戸へ、海路は、浜野・八幡または蘇我野から江戸へ至った。貨物は、ほとんど海路で運ばれた。郷土から陸路江戸麹町まで約一八里(六七・五km)、飛脚の足で二日道であった。
 天保一三年、潤井戸村で要した一カ年の継立人足は一万一千三百人余り(5)であったというから、この二つの往還に分かれても、それぞれ六千人近い人足を動かしたわけである。二道の合する皿木村には、大正期まで旅宿があった。