安政三年(一八五六)一一月二四日、久世大和守家来通行の先触が刑部村にあった。二五日朝六ッ時(午前六時)長南宿を出立し。市原郡小折村へ罷り越すので、駕籠一挺、人足三人、両掛一荷、人足一人、本馬一匹、軽尻(かるしり)馬一匹を用意し、磯ケ谷村まで継立てるように、というものである。刑部村では、早速初芝村、立鳥村、鴇谷村など、助合(すけごう)村々へ人馬の割当てをしている。(6)久世大和守は、時の老中関宿城主広周である。上総国にも所領を有していた。その家来二名が公用で通行したのである。このように、刑部村もまた中継場であった。安政七年三月二六日、鶴牧藩主水野周防守家来二名が、鶴牧表へ行くため、刑部村へ駕籠一挺人足三人、軽尻馬一匹の触当てがあった。経路は、埴生郡立木村、矢貫村、長柄郡刑部村、市原郡磯ケ谷村、姉崎村となっている。鶴牧藩領は、立木村はじめ埴生・長柄両郡内に散在していた。
郷土には、大名領分が少ないので、参勤交替の助郷などはなかった。それでも、小規模の武家の通行は時々あった。刑部の村上家に「黒田豊前守宿」とか、「有馬兵庫頭様御休」(文政十一年四月五日)といった木札が蔵されている。前者は久留里藩主、後者は五井藩主である。
「御用宿」という木札の裏面に、天保七年一〇月一三日、六地蔵村からの継立てにより、代官森覚蔵の手附二名が、それぞれ供一名を従えて来宿し、二泊して、一五日矢貫村へ出立した旨を認めてある。大名やその家臣、幕府役人などの通行が多かったことを示している。
御用宿掛札(刑部 村上忠義家蔵)
この外通行の多かったのは、長富から徳増・小榎本・榎本・上茂原を経て茂原村に至る道である。茂原村は、宿駅として次第に発展し、定期市も開かれ、長柄郡の中心地となりつつあった。茂原往来の休憩地として、上茂原村には茶店もあった。また、上野村や山之郷村の文書に、奈良村や金剛地村の名がよく出てくるので、上野から東国吉方面に至る道も、われわれの祖先がよく歩いた往還と考えられる。