徳増村より大堀際迄 九尺道
地蔵前より榎本境まで 七尺道
中道清水川 四尺五寸道
榎木戸とうめき 三尺道
地蔵前より榎本境まで 七尺道
中道清水川 四尺五寸道
榎木戸とうめき 三尺道
「道筋くい共相改メ申候」とあるから、この道幅は道路敷の幅であろう。狹い道であった。しかし、当時の運搬手段が馬の背荷駄(せにだ)か、人の背負梯子(せおいばしご)であったから、これで事が足りたのである。村道は、村人の手により小まめに修理された。しかし、橋の懸替(かけかえ)となると多大の出費を伴った。安政二年(一八五五)立鳥村では「切通し橋」の普請をした。諸経費(8)は次のとおりである。
一、橋板 五間四尺
一、柱木 壱本 九尺
一、はり木 八尺
右橋板三枚并はり木共代金壱両壱分弐朱、尤(もっと)茂杉木弐本 又柱四本代金弐分
右木挽(こびき)手間代扶持(ふち)共金壱分弐朱ト弐百文
一、柱木 壱本 九尺
一、はり木 八尺
右橋板三枚并はり木共代金壱両壱分弐朱、尤(もっと)茂杉木弐本 又柱四本代金弐分
右木挽(こびき)手間代扶持(ふち)共金壱分弐朱ト弐百文
総経費は二両一分と二百文である。人足は村人が出たものであろう。村道であるから、大坂のように他村からの助人足はない。また、文書の面からは、地頭の援助も読みとれなかった。
道幅相改書(舟木 矢部泰助家蔵)