全国的にみれば、交通に関する夫役は多々ある。勅使下向、将軍上洛、日光例幣使、琉球使節来朝、朝鮮信使来聘等々、そして、最も頻繁であったのは、大名行列や幕府の公用者の往来であった。郷土は、主要街道から外れていたので、これらに直接夫人足馬を差出すことは少なかった。ただ、いかに遠隔の地の行事であっても、国役金という形で金銭を徴収された。例えば、朝鮮信使来聘の国役金があった。
朝鮮信使は、近世を通して一二回来朝しているが、それは、正使以下四百人余の多勢で、その接待費が百万両に達したこともあった。その外、国威を誇示するため、道路や橋を整備し、通行のときは大勢の助郷を動員し、勅使の下向より遙かに厚く扱った。そのため、沿道の諸大名や農民の苦情が高まり、文化年度には極めて簡略化された。信使来朝の目的は、主として将軍の襲職を慶賀するものであったが、一一代将軍家斉は、文化八年(一八一一)対島で賀を受けた。従って、負担は軽くなったのであるが、それでも、高百石につき金一両を賦課されている。「朝鮮信使対州来聘諸入用御触割合帳」(13)に「この度、朝鮮信使対州迄来聘ニ付、諸普請其外惣御入用之内、六十余州御領私領村高百石ニ付金壱両宛国役掛り候処、右金高当辰より来る申年迄五ケ年ニ割合、壱ケ年分村高百石ニ付、永弐百文ツヽ掛り候筈ニ候。」とある。五か年賦で上納している。それにしても、全国の石高二、八〇〇万石とみて二八万両という大金になる。対島までしか来ないのにこのありさまであった。しかし、朝鮮信使の来朝は、文化以降国事多難となり廃絶した。