[旅のありさま]

431 ~ 433 / 699ページ
 近世農民にとって、村をあけて遠方へ旅する機会は少なかった。特に、下層農民にとっては皆無といってよかった。旅とはいえぬが、郷土の人々がよく出掛けたのは江戸である。諸史料から、村役人が公用や公事で出府する機会が多かったことがわかる。殊に訴訟などが長びけば、惣代は長期間江戸へとどまり、村からは連絡員や証人が頻繁に往来した。このようなときは、飛脚もよく用いられ、金子や書状が届けられた。年貢減免願いのときや皆済時、あるいは地頭の冠婚葬祭などの際も村役人が出府している。
 江戸までの陸路は、飛脚でも一泊二日を要した。浜野や八幡宿から船に乗っても一日半かかった。明治一二年の八幡原村東条江村の日記(16)によれば、その行程は次のとおりである。
 一二月二三日早暁八幡原発―(馬)―浜野着一二・〇〇―(昼食)―浜野発―(人車)―船橋着一五・〇〇―(人車)―行徳着一七・〇〇(泊)
 二四日行徳発八・二八―(蒸汽船)―府下大橋着一〇・二〇―(人車)―本所着
 人車とは人力車のことである。馬、人力車、蒸汽船を駆使しても一日半の行程である。江戸時代、徒歩で普通の旅をすると二日半かかった。江戸までの飛脚路用は、弘化二年(一八四五)の諸役銭差引帳(17)によれば四二文である。そこで、簡単な用務には、さかんに飛脚を使った。それでも、名主の出府する回数は多かった。図は、地頭から知行所名主に渡しておいた関所手形の写しある。小型のもので、名主の名がはいっていない。このような用紙が何枚も村方にあって、所用が生ずると名を記入して持参すればよいようになっている。この手形は、市川や小岩の関所を通行するときに用いられたものであろう。江戸までの往来はだれでも可能であったが、更に遠方への旅は信仰によるもの以外は考えられなかった。信仰のための旅には、出羽三山参詣、秩父坂東札所巡り、伊勢神宮参拝、西国札所巡礼などであるが、行旅の様相を語る史料は少なかった。限られた史料で、その様相の一斑をうかがってみたい。

(針ケ谷 小倉正男家所蔵)