1 三山参詣

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 江戸時代の街道は、武家その他の特権階級の旅には都合のよい制度が定められてあったが、庶民の旅には苦難がつきまとった。それでも、文人墨客、行商人、物見遊山または信心のための旅人は増加する一方であった。しかし、われわれの先祖である郷土の百姓が、遠方へ旅することはほとんどなかった。ただ、一生に一度だけ公然と旅に出ることができたのは信心のためのものである。そのうち、特に目立つのは、出羽の月山、羽黒山、湯殿山に参詣する、いわゆる奥州まいりである。
 山形県田川郡羽黒町手向(とうげ)の養清坊にある、「関東檀那御祈祷帳」には、貞享、元禄期からの参詣者の名前が丹念に記録されている。養清坊檀那は、刑部、大津倉、田代、金谷の四か村で、これは今も続いている。大津倉村の例でみると、貞享二年(一六八五)から記録され、少ないときは一人、多いときは二九人も揃って参詣している。貞享二年から昭和二七年(一九五二)まで八一団体が出かけた。明治の史料に「七月九日出発、八月十二日帰」(18)とあるから、三五日かかったわけである。江戸時代は、普通四〇日の行程であった。江戸時代の旅には、いろいろな危険が伴うこともあったので、四〇日にも及ぶ旅ともなれば、家族、親戚、知人と水盃を汲みかわし、村人多数の見送りを受けて出発した。
大津倉村 奥州三山年度別参詣者数
大津倉村 奥州三山年度別参詣者数
年度人数
貞享2 14
元禄5 10
享保6 12
〃 103
〃 184
〃 197
〃 207
元文1 3
〃 2 3
〃 3 4
〃 5 4
寛保2 4
〃 3 4
延享1 10
寛延2 2
宝暦4 7
〃 114
〃 135
明和2 3
〃 5 6
〃 6 3
〃 9 3
安永2 4
〃 3 3
安永4 4
〃 5 3
〃 6 2
〃 7 8
天明1 7
〃 2 1
〃 5 2
〃 6 2
〃 8 3
寛政2 2
〃 5 3
〃 7 8
〃 8 3
〃 102
〃 111
享和1 3
〃 2 2
文化6 6
〃 9 4
〃 101
〃 112
〃 123
文政1 5
〃 2 4
文政6 2
〃 8 7
〃 133
元治1 4
明治8 5
〃 203
〃 248
〃 253
〃 314
〃 3212
〃 358
〃 382
〃 3913
〃 416
大正3 8
〃 127
〃 138
〃 1413
〃 159
昭和3 1
〃 166
〃 176
〃 186
〃 2629


三山参詣者名簿
(山形県羽黒 養清坊蔵)