江戸時代の農民の生活は、貧しく惨めなものであったといわれているが、衣・食・住に関する史料は容易に入手できない。僅かな史料で推察するに、衣料は農閑期に女たちが手織りで木綿を織ったようである。食物については、断片的に散見される。享保二年の刑部村村高村柄等書上帳(1)に、「平生之糧は、ひえ、菜、大根仕り候」「凶作之節、野大根、わらび之類仕り候」とあるが、これは、米穀の乱費をきびしく規制している支配者に対しての極端な書上げで、雑穀を中心としながらも、米は恒常的に食べていたようである。上茂原村の書上げに、一人一日玄米一合五勺、麦三合とあるが、穀類中心の食生活であるから、このくらい食べなければ労働できなかったと考えられる。
副食も若干は手にはいったようで、弘化二年の舟木村諸役銭差引帳(2)にも、とうふ、こんぶ、いわしなどの代銭を支払ったように書いてある。酒、しょうゆ、茶、すなども、銭さえ出せば自由に買えた。ただ、農村は現金収入の道が少なかったので、なるべく自給自足した。昭和初期までの農家は、みな醤油・味噌を手作りしていた。
住居は、江戸時代に建てた民家が若干残っているので、大よその想像はつくが、それらは大農の家が多く、一般貧農の家には当てはまらない。
高山彦九郎の「北行紀行」によれば、寛政二年上総を旅し、笠森に参詣し宿泊のところがなく困窮したが、ふと会った一農民に声をかけられ、伴なわれて内田村奥野の民家に一泊した。その内田村清左衛門の家の様子を次のように述べている。「家は土地にして杉の皮など敷き、山の下の岩を掘り平らめて、流がしなども岩を其の儘(まま)に作りなしたるもの也。」土間に杉の皮を敷いたものが座敷であった。翌朝、雪隠(せっちん)(便所)を使って、また驚いている。「覆(おおい)もなし、是れ又珍事也」とあるから、扉も無い便所であったと考えられる。土間に籾穀を置き、その上に莚を敷いて居間にしたともいわれているので、大部分の農家はこのようなものであったと考えられる。それでも清左衛門は宿泊銭を受け取らず、彦九郎と酒を汲みかわして別れている。このように、貧しいながらも人々の生活には一種のうるおいがあった。婚礼、ひもとき、祭礼等はもちろん、虫送りだ。風祭りだといっては集まって楽しんだ。冨士講や三山講、大山講などをつくって出掛けることもあった。若者仲間の集まりもあり、又旅回りの芝居や相撲なども見物したようである。ただ、こうした娯楽の記録が残されていない。皮肉なことに、寛政や天保の奢侈の禁令から逆に、このような催しのあったことがうかがえるのである。
高山 清田富貴枝家旧宅 建築推定年代18世紀前期
(「上総地方の民家」千葉県教育委員会編)
残された史料を見ると、言語に絶する支配者の搾取にあいながら、なお且、屈することのない農民の機知と楽天性を見出すことがしばしばある。封建的抑圧に耐える祖先の、たくましい生活力を見せつけられるものである。以下、史料のある範囲内で、江戸時代の農民の生活をさぐってみたい。