1 家族

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次に掲げるものは、中農の代表的家族構成である。
 
   六左衛門 五十壱才
   女房   四十七才
 伜 栄蔵   廿五才
   女房   二十三才
 男子栄二郎  二才
   母    七十六才
(文化十年初芝村人別宗門改帳)(3)
 
   与惣兵衛 四拾六才
   妻 ふミ 四拾才
   聟 金次 二拾八才
   娘 はる 弐拾壱才
   同 せよ 拾八才
   同 きく 拾壱才
(天保十一年舟木村人別宗門改帳)(4)

 
 この両家は六人構成の標準世帯である。人別改帳には、二人家族もあれば、下男・下女を入れた家族もあり、人員はまちまちである。最初に書いてあるのが家長で、家庭内では絶対的な権限をもっていた。坐る場所も決っていて、嫁は、木尻(きじり)といわれる末座に坐った。木尻とは、炉に炊く薪(たきぎ)を置く場所である。聟も家督を相続するまでは、家庭内の地位はきわめて低く、嫁同様単なる労働力と考えられていた。それに対して家長権は強く、子を懲戒して勘当(かんどう)したり、旧離(きゅうり)を切ったりすることも思いのままであった。勘当や旧離によって人別帳から除かれれば、無宿人として非人の手下(てか)にされたり、佐渡へ送られて、金山の水汲人足にされたりすることもあった。現代と異なり、親子の縁を切られるということは恐ろしいことであった。
 嫁は、主婦の座につくと急に強くなり、その結果嫁いびりの悪循環となることが多かった。惣領は、家長に次いで大事にされた。「百姓子供多ク持候共、田畑惣領ニこれを譲るべし。自分として子供ニ割とらせ申間敷候。」(5)というように、分割相続が制限されていたので、その地位は安泰であったが、二、三男の行方へは惨めなものであった。「次男より耕作之働致させ候か、又ハ奉公人、商人、職人等之弟子に遣し、末々自分過仕(すごしつかまつ)り候様に致すべく候。」(6)という運命であった。一生長兄の下で働かされ、嫁も迎えられない者がたくさんあり、「オジ」と称して蔑視された。しかし、郷土の宗門人別帳で見る限り、二〇才を過ぎた二、三男坊はきわめて少なく、多くは聟養子に行くか、奉公に出たものと考えられる。二、三男を一生抱えておける程の高持百姓は少なかったのである。このような状況下では、聟養子の縁があれば、どんな苦しみがあろうと幸せであった。いつかは家督相続の日が来るからである。
 舟木村人別宗門改帳をみると、下男や下女を抱えた家が二軒ある。一七才から二二才までの男女で、寺送状によって奉公先の人別に加えられた者である。奉公とは江戸に出るだけでなく、百姓奉公をする者も多かったことを示している。