宗門人別帳による平均家族数
宗門人別帳による平均家族数 |
人 員 | 家 数 | 平均家族数 | |
文化10年初芝村人別宗門改帳 | 38人 | 9軒 | 4.22人 |
天保5年小榎本村宗旨人別改帳 | 92人 | 16軒 | 5.75人 |
天保11年舟木村人別宗門改帳 | 47人 | 8軒 | 5.88人 |
天保11年刑部村宗門人別帳 | 26人 | 5軒 | 5.02人 |
平均家族数の中には老人も含まれているので、一家の中に占める子どもの数は、きわめて少ないことがわかる。適当な産児制限の方途も無かったことから、やはり「間引(まびき)」の悪習があったのではないかと考えられる。明治政府になってからも、間引の禁令や育子告諭がしきりと発布されている。享保以降の農村人口の停滞は、出稼ぎばかりでなく、この悪習に原因するところが多かった。史学界では、上総地方は間引の多いところとして、定説になっている。その論拠となるものは、武射郡富田村記録(7)である。富田村では、元禄年間平均家数一九六軒、人数約一〇〇〇人であったものが、安政二年には、家数一一二軒、人数五一七人と激減している。
江戸時代の公式人口調査(8)によれば、享保一一年二六五四万八九九八人、寛政四年二四八九万一四四一人となっている。これには、公家・武士・無籍者は含まれていないし、調査方法もきわめて不完全なものであったが、江戸時代後期の人口は、二八〇〇万から三〇〇〇万人ぐらいとみるのが人口史研究家の現在の定説である。江戸時代初期は順調に増加していた人口が、後期に至り停止状態となったのは、鎖国という変則社会の中で、一定限度以上の人口を養い得なくなったからである。その上、重税・悪疫・飢饉等の連続により堕胎・殺児の悪習が一般化し、人口増加を妨げたものと考えられる。富田村記録は、郷土にも当てはめて考えられるものであるが、そのことについて農民を責めるわけにはいかない。人口抑制を余儀なくさせた為政者こそ責めらるべきである。