1 諸職人手間代

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江戸時代の農村経済は、自給自足を原則とした。諸職人も、初期は、百姓で器用な者が農間渡世としていたが、後半貨幣経済の浸透と共に専門の職人がふえてきた。表は、後期の諸職人手間代である。賃銭のあらわし方には、金一分につき何人というのと、一人につき銭何文と二通りあった。比較し易いように、銭相場により換算した。この外、天保二年舟木村御高札建替銘細書のように、大工一二人につき銀二四匁五分と飯米一斗二升分代銀九刄、木挽八人につき銀一二匁と飯米八升分代銀五刄四分といったようにあらわしたものもある。江戸時代の大工や左官の手間代は、上職人で銀三匁ないし四匁であった。(12)仮に三匁として計算してみると、元禄以降金一両は銀六〇匁、金一分を銭千文として銀一匁は銭六六文ほどで、三匁で約二百文となる。銭相場は概ね安いので、上職人の手間代は二〇〇文以上であったと考えられる。
出  典文政12年立鳥村御
改革ニ付村方議定
御請書(9)
天保14年刑部村組
合御取締御触書并
規定連印写(10)
元治2年針ケ谷村
諸職人共組合村議
定連印帳(11)
  賃金


職種  
金1分に
つき
(換算)
1人につ
き銭
 1人につ
き銭
金1分に
つき
(換算)
1人につ
き銭
大 工9人187文200文6人272文
木 挽101692006272
左 官82102005327
土 方91871727234
桶 屋101692006272
屋根屋111521727234
建 工9187
馬鞍ゆい6272
綿 打6272
畳 屋6272

 文政一一年は、金一両につき銀六三・四八匁、銀九・四五匁が銭千文であった。(13)これで、金一分を銭に換算してみると約一六七九文となる。金一分が大工九人の手間代であるから、一人当たり約銭一八七文となる。農村の大工で、上職人とはいえないが、やや低賃銭である。しかし、一四年後の天保一四年に二〇〇文であるから、文政一二年の一八七文は妥当かもしれない。ここに挙げた史料は、いずれも幕府の生活改善政策に対応した村方の取りきめであるから、特に低く抑えられたとも考えられる。元治二年ともなれば、幕府の終息も近く、何らの経済政策もなく、世情不安のまま諸物価の高騰は著しかった。元治元年には、金一両につき銀九三・四八匁、銀一四・二九匁が銭千文となっている。(14)大工手間賃も一人につき銭二七二文とあがっている。
 天保一四年、針ケ谷村では、諸職人手間代の高騰に耐えかねて村極(むらぎめ)をしているが、その中で「但シ有合(ありあわせ)喰物ニて煙艸(たばこ)代、酒代、草履(ぞうり)代一切遣わさず候事」(15)と議定している。職人にタバコやぞうりをやる習慣は江戸時代からあった。職人に出す食物費も意外とかさむものである。同じく針ケ谷村の元治二年の規定連印に、「朝汁[ ][ ]かふのものニて、有合ニてをかづ決して出さず」とある。また、「鉋(かんな)くず、小サ木(こさぎ)ニ至る迄持参致す間敷事」(16)と規定している。なお、「扶持渡し之節ハ、壱人ニ付玄米壱升弐合五勺宛渡すべき事」とある。扶持米で支払うこともあった。