出 典 | 文政12年立鳥村御 改革ニ付村方議定 御請書(9) | 天保14年刑部村組 合御取締御触書并 規定連印写(10) | 元治2年針ケ谷村 諸職人共組合村議 定連印帳(11) | |||
賃金 職種 | 金1分に つき | (換算) 1人につ き銭 | 1人につ き銭 | 金1分に つき | (換算) 1人につ き銭 | |
大 工 | 9人 | 187文 | 200文 | 6人 | 272文 | |
木 挽 | 10 | 169 | 200 | 6 | 272 | |
左 官 | 8 | 210 | 200 | 5 | 327 | |
土 方 | 9 | 187 | 172 | 7 | 234 | |
桶 屋 | 10 | 169 | 200 | 6 | 272 | |
屋根屋 | 11 | 152 | 172 | 7 | 234 | |
建 工 | 9 | 187 | ||||
馬鞍ゆい | 6 | 272 | ||||
綿 打 | 6 | 272 | ||||
畳 屋 | 6 | 272 |
文政一一年は、金一両につき銀六三・四八匁、銀九・四五匁が銭千文であった。(13)これで、金一分を銭に換算してみると約一六七九文となる。金一分が大工九人の手間代であるから、一人当たり約銭一八七文となる。農村の大工で、上職人とはいえないが、やや低賃銭である。しかし、一四年後の天保一四年に二〇〇文であるから、文政一二年の一八七文は妥当かもしれない。ここに挙げた史料は、いずれも幕府の生活改善政策に対応した村方の取りきめであるから、特に低く抑えられたとも考えられる。元治二年ともなれば、幕府の終息も近く、何らの経済政策もなく、世情不安のまま諸物価の高騰は著しかった。元治元年には、金一両につき銀九三・四八匁、銀一四・二九匁が銭千文となっている。(14)大工手間賃も一人につき銭二七二文とあがっている。
天保一四年、針ケ谷村では、諸職人手間代の高騰に耐えかねて村極(むらぎめ)をしているが、その中で「但シ有合(ありあわせ)喰物ニて煙艸(たばこ)代、酒代、草履(ぞうり)代一切遣わさず候事」(15)と議定している。職人にタバコやぞうりをやる習慣は江戸時代からあった。職人に出す食物費も意外とかさむものである。同じく針ケ谷村の元治二年の規定連印に、「朝汁[ ][ ]かふのものニて、有合ニてをかづ決して出さず」とある。また、「鉋(かんな)くず、小サ木(こさぎ)ニ至る迄持参致す間敷事」(16)と規定している。なお、「扶持渡し之節ハ、壱人ニ付玄米壱升弐合五勺宛渡すべき事」とある。扶持米で支払うこともあった。