江戸時代後期、地主と小農の階層分化が極端となり、水呑同様の者が多数現れると、常雇いの下男・下女の外に、百姓日雇いを多く入れる地主がふえてきたが、その賃銭は概して安かった。文政一二年立鳥村では、
一、百五拾文 百姓男日雇(ひやとい) 昼麦飯壱食 一、百文 女農日庸(のうびよう) 昼麦飯同断
一、百文 右男日雇 三度食 一、四拾八文 右女日雇 三度食
と規定した。(17)天保一四年になると、諸職人の手間代はあがっているのに、農日傭賃はむしろさがり、男一食づき一四八文、女一食づき八〇文である。但し書に「酒抔(など)ハ有合(ありあわせ)ニても呑ませ間敷候事」とある。転落した百姓が多く、低賃銭でいくらでも雇えたのである。元治二年にはさすがに上がり、一食づき男二四〇文、女一七二文となっているが、男女間の格差は少しも縮まっていない。