篠網村では、前々より地頭所へ夫人をひとりずつ差出していた。旗本屋敷の雑用を勤める下人である。ところが、地頭所からの給金は、年一両二分に過ぎない。明らかに徭役(ようえき)的性格のもので、労働貢租の一種である。このように安い給金では、だれも奉公に行き手がない。そこで、惣百姓で金を出し合い、村方で一両三分を給金の不足分として支払った。合計三両一分が年間の給金である。それでも夫人となることを渋るので、高持百姓が一年交代で夫人を差出すことにした。もちろん、高持百姓自身が出るのでなく、他家の二、三男や水呑を雇って差出してもよかった。その場合、給金は話し合いによって決められ、前述のように惣百姓が割合って不足分を補ったのである。
このように取り決めてあっても、問題はしばしば発生した。奉公人が出奔したり、病死したり、長い病気にかかったりしたときは、代人を差出すか、職業的下人を雇えるだけの金銭を地頭所に納めなければならなかった。このような事故があれば、村役人が江戸へ出る路用や飛脚賃その他の雑費もかかる。このような費用も惣百姓で負担した。文久三年(一八六三)篠網村惣百姓は、「何れの当番ニて長病、死者は勿論、其外不幸等有って諸入用相掛り候ハバ、―中略―其年不足之分ハ如何程成共(いかほどなりとも)、惣百姓一同割合い出銭致し候筈」と議定(18)してる。旗本は、知行所百姓をただ同様に使役していたのである。