4 髪結賃(かみゆいちん)

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天保一四年(一八四三)在方から湯屋・髪結床・酒食小間物商(あきない)・刀拵(かたなごしらえ)等一掃の御触(19)が出た。村明細帳で見る限り、このような職業の者は郷土では見られないが、御触に「近年次第ニ相殖(ふえ)」とあるから、このような職の者が農村でもふえて来たのであろう。元々百姓は、元結(もとゆい)を藁でせよ、とか、髪油を使ってはならないとか、いろいろ制約されていた。従って、農村に髪結床が成り立つ要素は少なかったのであるが、文化文政期を通じて農村の生活もだんだん華美になって来た。この御触書でも、全面的に髪結床を禁じたわけでない。「髪結これ有る所差止申すべし。尤(もっと)も、実々病身ニて農業成リ難く候ハバ、御趣意ニ付諸色下直(しきしたね)ニ罷(まか)リ成り候間、壱人前ニ付拾四文いたし、宅内え張り置き申すべく候事」と述べている。病身で百姓働きのできない者には認めているし、安値ながら髪結賃も一四文と規定している。
 元来、封建支配者にとって、農村には百姓さえいればよかった。彼等にとっては、年貢米の増収だけが目的であり、百姓が調髪することなど無用であった。髪結だけでなく、消費的出費は一切抑えたかったのである。しかし、時代の波は支配者の願望をよそに、百姓も調髪するようにさせてきた。一四文の髪結賃で、正月や祭札には、頭をきれいに整えた百姓も現れてきた。