[頼母子講(たのもしこう)]

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 「たのもし」は、鎌倉時代からあった。営利を目的としない相互融通組合といったようなものである。組織は、発起人あるいは世話人を中心とした数人ないし数十人の仲間から成り、一定の給付すべき金品を予定し、みんなで、定期的に定められた金品を拠出する。給付は、普通くじ引きで行なわれ、当った者から順番に金品を受取った。
 講の一種に無尽(むじん)がある。頼母子とほとんど同義語に用いられているが、頼母子に比べてやや営利的であり、投機的であった。早く落札した者に利息をつけたり、落札者が残りの掛金を支払わぬことを恐れて担保をとったりしている。頼母子は、仲間の困窮者の救済、寺院の維持・修繕や参詣費の積立てに利用されることが多かったが、江戸時代には全く無尽と区別されなくなった。安政年間、笠森村市右衛門が親となって講がたった。安政二年二月、高山村の幾三郎が落札した。
 
    頼母子落札証文之事(20)
 
一金七両也
 右は、笠森村市右衛門頼母子講之儀、此度私し落札ニ相成り、前書金子慥(たしか)ニ請取り申す処実証也。但し、返金之儀は三月、十月両度金壱分ゾツ満会まで掛合仕(つかまつ)るべく候。若し掛金相滞り候ハバ、私し所持の田地字(あざ)吉添ニて上田壱反壱畝拾八歩之処、請人(うけにん)ニ而引請け、満会まで掛合仕り、御セ話人衆中へ、聊(いささか)御苦労相懸け申間敷(かけもうすまじく)候。後日の為、頼母子落札証文仍て件(よってくだん)の如し。
 安政六未年二月 日    高山村  落札人  幾三郎印
                    請人  和吉印
  御世話人衆中

 この落札証文では、残り掛金の担保をとっている。無尽と何ら変わるところがない。しかし、無尽は次第に博奕類似のものとなり、富くじに似た掛放しのものも現れたので、発生期の性格の違いはどことなく残っていたといえる。頼母子や無尽は、つい最近まで郷土でも行なわれていたが、自転車やふとんの無尽、三山講の旅費無尽など、きわめて健全なものばかりであった。同じ自転車が順番に購入できるのであり、そこには、早く手にはいるか遅くなるかの違いしかなかった。三山講の場合は、旅費の共同積立てであり、一時的出費を避けるための互助が目的であった。高山村の幾三郎は、どんな目的で市右衛門の頼母子講にはいったか不明である。ただ、現金収入の少なかった農村で、年間二分ずつ積立て、一度に七両が手にはいることは大きな魅力であった。頼母子も、農村部に於て、創草期の互助組合的性格が保たれていたといえる。江戸では、現在の宝くじ的無尽がはやり、多くの者から掛金を集め、当選者には莫大な金子が支払われるが、大多数の者は掛捨てであった。世話人は手数料をとって利益をあげた。不安定な社会においては、必ずギャンブルが流行するものである。

頼母子仕方帳(小榎本 田辺政寿家)