宝暦四年(一七五四)徳増村の□兵衛は、何らかの罪により籠居(ろうきょ)を申渡された。家族や親類の頼みで、組合の岩川村文蔵、棚毛村茂右衛門、今泉村政右衛門、小榎本村治右衛門、長留村治郎左衛門等の連署を以て、代官所へ出籠願を出した。ところが、代官所から親類、五人組の者まで吟味するから、□兵衛同道の上出頭するよう申渡された。
驚いた親類・五人組の者どもは、再び組合村々の名主へ、吟味御免の嘆願をしてくれるよう頼んだ「私どもは不調法者(ぶちょうほうもの)であるから、万一、相麁(そうそ)成る儀をも申上げては恐れ多い。それに□兵衛は、ただ今までの籠居のため寒風に当たって煩っている。歩くことはもちろん馬でも出頭はむずかしい。…中略…御吟味御免の後は、どのようなことを仰せ渡されても少しも違背しないので宜しくお願い申上げる。」といった趣旨の口上書(22)である。
これは、当時の人々がいかに幕府役人から吟味を受けることを恐れていたかをよく示している。普通の農民が、代官所役人から取調べられたなら、うまく返答もできなかったのであろう。
安政五年(一八五八)真名村名主であり、組合村小惣代でもある図書(ずしょ)は、地頭村上氏の怒りに触れ、名主免役の上隠居、更に独居を申渡された。しかも、独居の家ができるまで手鎖をかけ、長岡村役人中へ預けるというきびしいものであった。山辺郡長岡村は、やはり村上氏の知行所である。この件で図書が地頭から勘気を受けた理由はわからない。とに角、家来を出役させて処分しているので、大分烈しい怒り方であった。驚いた図書の親類一同は、急いで組合村々の役人たちに宥免運動を依頼した。組合村々の名主たちは、早速宥免願を出すことを承知したが、折悪しく年貢収納期であるため、そろって出府することができない。そこで、名主たちの中でも人物がすぐれ公事(くじ)にも長じている舟木村名主十兵衛に、惣代として出府してくれるよう頼(たのみ)一札(23)を入れた。その要旨は次のとおりである。
「真名村名主図書は、関東御取締御出役様より、組合村小惣代に任命されている。名主御免となれば、その方面の用向きや取締方にも差支えが生ずるので、名主免役の件を関東御取締御出役様へ報告する前に、地頭所に願い出て、名主役に復帰できるよう取りはかってほしい。
真名村名主として、図書には何ら非分沙汰がなく、始(はじめ)・裏(うら)・終(おわり)当然の道理、取扱方深切(しんせつ)であるから組合村々役人で早速出府嘆願しようとしたが、年貢上納期であるため、貴殿が惣代として出府していただきたい。」
この頼一札には、図書の親類と、真名・庄吉・大登・黒戸・味庄各村々の名主一一名が連印している。図書の親類は、力丸・押日・犬成・下永吉等に散在している。図書という名から考えても、往古士分の土着した者の子孫であろう。しかし、いかに百姓の名家であり大地主であっても、ひと度領主の怒りに触れれば即座に罪科に処される。安政期に至って、幕藩体制の支配力が低下したとはいえ、封建的身分制度は未だ絶対的なものであった。
安政六年(一八五九)関東取締出役回村の際、笠森村で一名、高山村で五名、計六名が逮捕された。この年は、安政の大獄があり、翌七年には大老井伊直弼が桜田門外で斬殺されている。世情騒然として、幕府は内政・外交とも行き詰っていた。関東農村の荒廃も極に達し、人心は荒み、不良行為が続発した。高山・笠森両村で逮捕された者の中には、名主の伜(せがれ)や組頭まで含まれている。「不埓(ふらち)之義これ有り」というだけで罪状はわからない。
この件につき、刑部村組合の大小惣代や地元名主の連印を以て宥免の嘆願書が出された。「右六人の者共は先非を悔いているので、御吟味をこれまでにして村へ下げ渡していただきたい。笠森村○助は名主宅に預り農事に精励させます。高山村組頭△△右衛門は、名主や大小惣代の者共で心添えし、身を慎しませて農業に精を入れさせます。他の四人の者共は、証文を取って親たちに預け、厳重に申諭(もうしさと)して農事相稼ぐよう申しつけ、私どもでよく監督いたします。」
この嘆願書は容認され、六人の者どもは村預けとなり、請書が差出された。「農業之外他行等致させず―中略―御用之節は何時ニても召連れ罷(めしつれまか)り出べく候。」(24)執行猶予のようなものであり、軽罪であった。