2 帰帳願

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江戸時代の刑罰は縁坐法であった。親の罪を子が負い、弟の罪により兄が罰せられるなど、その罪の軽重により血縁者は連帯責任を課された。
 近世で最も重罪とされたのは主殺しである。犯人は、晒(さらし)・鋸挽(のこぎりびき)の上磔(はりつけ)にされ、親子兄弟に至るまで死罪に処された。不身持(ふみもち)の子や家出した者があると、何時どこで何をしでかすかわからないので、縁を切っておく必要があった。これを勘当または旧離という。勘当(かんどう)とは、家にいる者と親子の縁を切って追い出すことであり、旧離(きゅうり)とは、家出その他で家にいない者との縁を切ることである。その手続きは、親類、五人組、村役人の連印をもって、代官または領主に届け出、その承認を得ると帳外となる。帳外(ちょうがい)または帳外(ちょうはずれ)とは、人別帳から除くことである。以後は無宿者となった。帳外者には、貧困のため欠落出奔して行方不明となった者も多い。
 文久四年二月、徳増村□兵衛実子△蔵は不身持のため除帳された。組合や親類の者どもで意見したが改心せず、このままでは「後難も覚束(おぼつか)なく」除帳したのであるが、後証のため、組合村々役人にも調印を願っている。(25)確かに人別帳から除いたという証文をもっていなければ、なお且不安であったのであろう。帳外者も、その行状が改まれば帰住させることができた。親類や村役人連署で嘆願し、代官や領主に認められれば、改めて人別帳に記載できた。これを帰帳という。
 安政二年、市原郡磯ケ谷村無宿□太郎の帰帳願(26)の要旨は次のとおりである。
 「磯ケ谷村△助の弟、無宿□太郎は、関東御取締出役様回村の折召捕えられました。□太郎は、両親死去の後あちこちと遊び歩き、他人の衣類など借り出して質に入れるなど、宜しくない風聞が御出役様の耳にはいったからです。しかし、元々大悪党でもなく、人別帳から除いたことも本人を懲しめるためでした。今では先非を悔い、急度(きっと)心底を改め、農業相続をしたいと願っていますので、何卒御慈悲を以て帰帳をお許しくださるようお願い申しあげます。」
 元治二年の初芝村の帰帳願(27)は、子が親の帰帳を願ったもので珍しい例である。初芝村百姓□次郎は五年前に帳外となった。そのとき、伜△左衛門に跡目相続が許され、どうやら家族を養ってきた。しかし、伜△左衛門としては、親のことが気になって心底から離れない。父□次郎は病身であるから死目に会えないかもしれない。近頃□次郎は親類を頼り、病気の由を知らしてきた。是非手元に引取り医師にかけたいので、何卒帰帳を許していただきたい、と願っている。
 中年になってからどのような不行跡があったのか、恐らく放蕩(ほうとう)に流れ、財産を使い果たしそうになったので、親類一同相談の上除籍したものであろう。無宿となって遊侠の徒と交るのも、酒色にふけり遊び呆けるのも、若くて健康なうちは面白いであろうが、老いさばらえた無宿人は悲惨である。最後に頼れるのは家族、縁者以外にない。親らしからぬ父でも、これを暖く迎え入れようとする心情が嘆願書の中に浸み出ている。