安永九年から一〇年にかけて、樽屋与左衛門名代の吉田源蔵なる者が、勘定奉行曲淵甲斐守、牧野大隅守の免状を携え、房総三か国の枡改め(28)を実施した。郷土では、刑部村に本拠を置き近郷の枡を検査した。桜谷村では、村役人四人で枡をかつぎ、刑部村まで運んで検査を受けた。年貢米を計量する枡は、各給ごとに地頭所から支給されている。その外、村枡が何丁かあった。枡は樽屋の専売で、その焼印のない枡は使えなかった。この年の枡改めでは、三つの枡はすぐに焼印を押してもらえたが、一丁は、小破修理のため釘を一本打ってあったので焼印を受けることができなかった。即ち不合格となったわけである。桜谷村では、この際九六四文出して村枡を二丁購入した。このように、枡の検査は厳重であった。枡改めのような場合も、夫役として馬一匹を差出して継送りしている。幕閣の免許状を携える者は、凡て公用として村々に夫人馬が賦課されたのである。