[行倒人]

462 ~ 462 / 699ページ
 「午(うま)十一月八日、坊ケ谷関之上、庄八田ニ道心(どうしん)壱人たをれ居り候処、村之久七見付け、夕飯過ニ村年番方え申し来り候ニ付き、早速人足を当て、夜番を付け置き候て、四給立合い相談之上ニて、鴇谷村道心之由申し候者御座候間、九日朝申し遣し候処、早々鴇谷村より仁平次殿、蔵松殿両人罷り越し、此方之道心ニ御座候と申し、右両人ト村役人立合いニて請取り渡し相成り申し候。」(29)
 天明六年のことである。鴇谷村では謝礼として酒一荷を桜谷村へ贈っている。しかし、この騒ぎで要した費用八五五文は、桜谷村の四給で高に割合い負担した。行倒人の身元が不明な場合は、桜谷村で葬り、地頭所へも報告しなければならないので、一層多額の費用がかかるのである。村役人は、村内で起こったあらゆる事柄を処理しなければならなかった。道心とは、僧体はしているが正式な僧侶の資格を持たず、堂守や僧侶の下働きをする下人である。郷土では物乞いのように解している人もある。