宝暦八年寅ノ六月廿八日夜、大榎本村百姓元右衛門は、麦三俵を盗み取られた。このことは直ちに、名主○右衛門へ届けられた。
名主○右衛門は、組頭衆と相談の上、村中の大小百姓たちを自宅に集め、次のように申し渡した。(30)
「元右衛門のところから盗まれた小麦三俵は、品物が大きいので、未だ他村へ出ていないと思う。今から百姓ども全員の入札(いれふだ)によって盗人の心当りをつけ、家さがしをする。」
百姓たちは驚いて、少しの間座を外して相談してから返答したい、と要望したが、名主・組頭から「此座、壱人茂引候テハ不相成候」として、早速入札をさせられた。やむなく四十人の百姓たちは、その場で入札した。その結果、二七枚に某の名が記されていた。
直ちに某家の家さがしが行なわれたが、盗まれた三俵の麦は発見されなかった。
某は、「何分ニモ相立難候」と立腹し、入札した者や、家さがしに来た者をなじり、面目が立つようにしてくれ、と何回も村役人に願い出たのであるが、満足な回答が得られず、上谷村(山辺郡・現東金市)の代官所へ願い出たが、やはり取り上げにならず、とうとう江戸の地頭所まで出向いて、八月一日に、右の趣を願い出た。しかし、既に村役人から報告があったのか、家さがししたのは村内一統の意志であったから、やむを得ないことである。として、やはり取り上げてもらえなかった。
万策尽きた某は、「向後、村内何様之義有レ之、度々盗人ト被二名附一候而者、百姓難二相勤一、難儀至極」と、奉行所へ出訴した。奉行所への出訴が九月廿二日、五日後の廿七日には、願いは却下された。奉行所でも取り上げてもらえなかったのである。小百姓の悲哀が身に浸みるような一件であった。