[宗教と生活]

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 江戸時代の人々の生活は神仏と切り離せなかった。産土(うぶすな)の神は、一村の鎮守として君臨し、檀那寺は菩提(ぼだい)のため欠くことのできないものであった。殊に寺院は、切支丹取締りに端を発した寺請制度と関連し、後には戸籍台帳にあたる人別帳の保証者として庶民の間に厳然たる勢力を張っていた。これらの寺院・仏閣の維持には多大の出費を伴ったのであるが、人々はその管理・保全に最善を尽し、大修理や改築の際は近郷と結んで講を立てお互に助け合った。生産と関連して水神や山の神を祀り、馬の所有者は馬頭観音の碑を建てた。行旅の安全を祈る道祖神も至るところに見られる。一家・一族の安全を祈る屋敷神、農事の福利を祈る恵比須信仰、子どもが賢く成長するよう天神を祀ることも一般化した。二月の初午(はつうま)の日を大祭とする稲荷(いなり)信仰も豊かな生産を祈るものであった。
 このように、日常生活が神仏で囲まれていただけでなく、その盛んな信仰心は遠隔の霊場や有名寺社の参詣へと人々を駆りたてた。出羽三山・秩父坂東札所・大山・冨土・伊勢・西国札所・金毘羅と際限がない。それは、多額の費用を要し、水盃をくみかわして出かける程の危険もあり、途中で病死したときは無縁墓地に葬られることを覚悟しなければならなかった。しかし、このような信心の旅に出られる者は限られており、富裕な百姓が、物見遊山を兼ねて出かけることが多かった。
 参詣に行けない者も遠くの寺社と無関係ではなかった。檀回りと称して、配札が行なわれ、初穂料を納めた。また、いろいろな寺社からの寄付の要請があり、格式の高い寺社は寺社奉行の勧化(かんげ)免許状を携えて村々を回った。それらの数はおびただしいものであり、それが宗教に関係することだけに断り切れず農民を苦しめた。まず郷土に残された名主御用留や文書(36)により、寺社とのかかわりあいをうかがってみたい。もちろんこれらは事実の一部であって、実際はさらに多くの寄附勧誘が行われたことであろう。次に残存する遺跡、遺物についてのべ、おわりに近世から明治初年以後、今日に至るまでの信仰の変遷をここでまとめてのべたい。信仰というものはあまり変化する事なく、今日の宗教的な各行事や慣習も、近世のそれらと相通ずるものがあるからである。