元治二年三月、関東取締出役から回状があった。京都泉涌寺では、去々亥年(文久三年)から来る巳年まで中七年間「御府内武家方寺社并関八州相対(あいたい)配薬」の御免を受け、この度泉涌寺役人宇田川勘解由が回村して配薬することになった。別紙印鑑を寄場寄場へ一枚ずつ配布しておくので、紛れぬよう引合わせて見るように、というものである。この配薬は、「相対次第(あいたいしだい)、押而(おして)不レ配様」に申添えてあるので強制売薬でない。
郷土史料では、神社の巡行は数多く見られるが、寺院のそれは、この一例だけである。泉涌寺とは、鎌倉時代の俊芿律師(明治天皇より月輪大師の号を贈らる)の建立になるもので、皇室関係の墓所も多くあり、公家など尊崇を受けて来た寺で、従って庶民の檀家をもたない。幕末に至り財政逼迫のため売薬を考えたのかもしれない。古来、寺伝の秘薬をもつ寺は多かった。しかし、泉涌寺の薬については何等の記録もなく、現在の寺僧も配薬の事実を知らない。しかし、刑部村名主用留に記録されているので、配薬をしたことは事実であろう。泉涌寺の開山俊芿律師(一一六六―一二二七)は入宋求法して多くの経論をもたらし、帰国後も朝野の尊敬を受け、日本の出版史上にも著名な僧で、儒道にも通じ、中国の天文、医学、書道を学んで、帰朝した。重い病人を蘇生せしめたという伝承もあり、あるいは寺伝として薬を作り出したことが推測される。