慶応三年五月、市原郡菊間村八幡神社神主根本大隅から、同社修復のための勧化状が、御府内在町并武蔵・上総二か国へ出された。これは寺社奉行の承認を得ている。国家安全を祈祷し、三か年間、正月・五月・九月と年三回相対配札するというものである。押して配らざるよう申添え、紛らわしき者でないことを寺社方が保証し、組合限り順達させている。
菊間村八幡宮の勧化範囲に武蔵がはいり下総が除かれている。寺社と信者の関係にはわからぬ点が多い。
格式の高い寺社の御免勧化の外に、近隣の寺社とのつき合いも非常に多かった。御免勧化の外は一切の寄付を断ると村で議定しても、宗教のことであれば容易に断れるものでない。頻繁な勧化は、農民の生活を圧迫するひとつの要因でもあった。幕府滅亡直前における寺社の断発な動きは、不安におののく民心の反映と考えられる。