徳増・元禄4年庚申塔
室町時代のころから仏教的な像が造られ、そのうち六臂の剣をもつ青面(しょうめん)金剛の像がもっとも多い。これには三猿(見ざる言わざる聞かざる)の像が刻まれているもの、日や月が附加されているものがある。徳増には元禄四年(一六九一)桜谷春日神社前には享保四年(一七一九)皿木にも文化六年(一八〇九)の青面金剛像のものがあり、鴇谷犬飼神社前には天明八年(一七八八)の「青面金剛童子」と文字銘のものがあって、広く行われていた信仰であることが伺われる。
また道のほとりに安置されている仏像には道しるべの文字が記されている事が多い。道行く人も稀で人家から離れている分岐点など、もし一度路を迷えば取りかえしのつかない事になる時もある。その点まことにありがたい仏さまであったわけで、長柄山にはふるい観音立像がいま小屋がけの中に安置せられている。右に「元禄五年壬申十月十八日、長柄山村同行二十六人」左側には「此より南のさく阿い[ ]かさもり道」とある。欠けてよめない所はおそらく「ちようなん」とあったのではないかと推測される。この像の正面は昔の江戸街道であった篠網にぬける谷間(さくあい)の道に向っていてこの道が古くから開けていたことを示している。同行二十六人というのはこの村の同じ信仰(観音)に結びついた人たちが、労力と金力を出しあって往還の人たちへの奉仕の為にこの像を建立したことを示すもので、世の中の為にという善意がこもっているのである。
おなじ昔の江戸街道であるが倉賀野の林の中の古い道の交叉点にも地蔵尊が立ち、首の部分がないので「首きり地蔵」とよばれ、今も信仰せられているが、そのほとりに「かさもり長南江の道、一の宮茂原道、やはた江戸道」とそれぞれ標した石の角塔が立ち、「奉納坂東秩父西国、四国、寛政十歳七月建之 長柄山地内、勝間邑文右衛門」とある。おそらくこの人はここにあるように坂東三十三観音をはじめとし、秩父、西国などの観音巡礼や四国八十八所の遍路をした信仰深い人で、それらの旅さきでの道標のありがたさに感謝し、その思をこめて私費でこの道標を建立したのであろうが、昔の人の温い心を偲ぶことが出来るものである。鴇谷天王橋のほとりにも年号がないが、馬頭観音と正面に刻み、両側に笠森、江戸長南とそれぞれ記している。今はかえり見られる事のないこの路傍の仏たちが昔は文字通り迷える人たちの道しるべとなっていた事を思うと、これらの仏たちも大切に保存しなければならないであろう。
なお寺院の門の前などに供養塔が立っている事が多い。鴇谷日輪寺の前に道に面して建てられている角形の碑は、光明(こうみょう)真言塔である。密教では梵語や陀羅尼(だらに)を翻訳せずに読誦するのであるが、その一つである光明真言(オン・アボキヤ・ベイロシャナウ、マカボダラ、マニ、ハンドマ・ジンバラ、ハラバリタヤ、ウム。大日如来よ、智恵と慈悲をたれてお救い下さいの意)を梵字のまま中央に、円形にきざみ、その下に「奉供養光明真言講中為二世安楽。(右)杉野山日輪寺(左)二十九世尊弘」とあり、左側面に戒名五人と本願主自性院一念浄悟法師」右側面に明和五年(一七六八)十一月と、建立の年月と共に施主三橋清吉外五名の名が読める。これを誦することで一切の罪障を除き、この真言で加持した土砂を死者にふりかければ極楽往生疑なしと信仰せられ、平安朝中期から広く行われた信仰で、講すなわち同じ信仰のものが仲間を結び、光明真言を多数(おそらくは十万遍、あるいは百万遍)唱え、それを記念して建立したものだが、この施主名に苗字が刻まれているのは注目すべきであろう。
普通には江戸時代の農民には苗字がなかったとされている。然し事実は公けの場では特に許されている者以外は名乗れなかったのであって、実際は各々の家に苗字があったのであり、宗教的な場ではそれが認められていたのである。またこの施主のなかには真言宗の日輪寺檀徒以外の日蓮宗のものもあり、村の信仰行事ではそれらの宗派にとらわれなかったことを示している。