13 村の寺

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各村には寺院が多く、なかには今は廃寺となって、その名が忘れられてしまったものも多い。明治二二年に現存していたものはすでに既述の各村の概説の中で記述せられているが、この中にはその後合併せられたものもある。長柄町に現存し堂宇のある寺院は三九であるが、大部分が住職が不在で在住の住職者はわずかに八名にすぎない。中世篇で触れた数ケ寺を除きその成立も創立年代も全く不明という外はない。しかし近世にさかのぼるとさらにこれ以上の多くの寺院が存在し、おのおのに僧侶が住んで宗教活動を行っていたのであって、この委細はいまは不明であっても仏教寺院の社会に対する影響は大きかったことが想像される。
 寺院の創立年時は全国的に見て室町中期の永享、嘉吉のころ、すなわち一四五〇年代以降、寛永のころ、一六三〇年代までに成立したものが多く、以後徳川幕府の宗教政策によって統制され新寺の建立は非常に少なくなったといわれているが、いまは全くその由緒の不明となった廃寺もその間の成立であろうか。廃寺となった寺院はその原因として、①幕府や藩の方針によったもの。②明治初年の宗教政策によったもの。③それ以後の経済的事情あるいは無住となった為に維持困難となったもの。以上の三つが数えられようが、この長柄町では藩の知行地がほとんどなく、分割された天領または旗本の管轄であったため、第一の場合はなく、すべてそれ以外の理由で、特に明治維新の排仏毀釈の風潮によるものが多い。
 すでに知られているように、明治元年以降数回にわたって公布せられた神仏判然令は従来の神社が社僧、別当寺によって管理せられていた事を廃して、皇族出身の僧(法親王)は還俗せしめられ、公卿の子弟が僧となる事を禁止し、従来の朱印、黒印などによる寺領をとりあげ、僧侶を教導職として神を礼拝する事を命ずるなどして、仏教関係の貴重な遺物も文献も廃棄を命じ、重要な日本の伝統を語る古美術さえも焼却されてしまった。
 この長柄町の範囲に於いては、極端な廃棄は行なわれなかったようであるが、この時無住の寺院は速やかに廃止する事が勧告せられたらしく、多くの廃寺が生じた。例えば鴇谷日輪寺末寺の八寺のうち密蔵院・真浄寺・持明院・祐蔵院・成就院・円乗院の六寺が、日輪寺に合併せられているのがその一例である。当時は正式の僧の資格がなくてもその寺堂に住んでいる者があれば存続したが、逐次住僧も居住せず堂宇の維持が困難となると本寺に合併せられて行った。
 宝暦一〇年(一七六〇)の「月輪寺并門末永々定書」に署名した十三ケ寺にはすべてその時の僧侶の署名があるが、現在では大聖寺、西光院(共に針ケ谷)および勝蔵寺(篠網)を除き、明治二六年以降次々と月輪寺に合併せられ、その堂も縮小せられて行屋(ぎょうや)となるかあるいは全くそのあとを止めなくなっている。立鳥も妙竜寺が弘安一〇年(一二八七)という古い創立を伝えながら明治一一年三橋寺へ合併、感応寺も明治四一年、三橋寺に合併、文化年間ごろ創立の掃摩庵も廃絶、さらに昭和二九年にはその三橋寺も針谷寺に合併せられて立鳥には一ケ寺の寺院もなくなった。これらの寺院には当然ある程度の記録も存在したであろうが今は全く亡佚してしまっている。また桜谷の帝釈寺も羽黒系の修験寺であったが、明治初年の神仏分離により破壊せられてしまっている。(研究編参照)
 以下、中世篇でのべたものは略述し、その他のものは残された断片的な伝承や記載を整理して説明して置きたい。
 沾通寺(日蓮宗)榎本。茂原藻原寺末。延慶元年(一三〇八)五月十五日、安立院日向開山。妙泉日潤尼の開基 山号を妙泉山という。隣の小倉氏(家号アラチ)の娘が盲目にて尼となり本寺を創建したと伝える。日蓮の伝記に見える榎本庵とあるのはこれか。
 長栄寺(天台宗)榎本。本尊の平安末期の阿弥陀仏坐像(町文化財)はもと真福寺にあり、明治二八年合併した時移したという。真福寺は榎本城主の菩堤寺と伝えその寺址より宋代の青磁・白磁の破片が出土しその創建が平安末期という伝承も信頼出来るようである。長栄寺の創建も古いようであるが文献伝承を共に欠いている。
 円寿寺(天台宗)小榎本。庭前に万人講の碑あり。
 城徳寺(日蓮宗)徳増。通称高見(たかみ)の寺。明治四一年に鏡蔵寺と合併した。鏡蔵寺は建長五年(一二六三)宍倉宗義の開基と伝え、その寺史の伝承および金石文などを整理し『経蔵山城徳寺由来書』(昭和五一年二月油印)が宍倉季麿氏により編集されている。
 円覚寺(天台宗)徳増。
 福聚寺(天台宗)桜谷。二体の異風の天部像があるが、旧帝釈寺蔵の修験関係の遺品か。
 妙円寺(日蓮宗)桜谷。旧顕本法華宗。
 東福寺(天台宗)長富。上総地蔵巡礼第三番。
 日輪寺(真言宗豊山派)鴇谷。鎌倉中期憲静願行上人開基と伝え、涅槃画像、真言八祖画像、応永二三年金剛盤、如意輪観音座像・寛永追刻銘の鰐口(以上町文化財)がある。如意輪観音座像は旧二宮本郷村の如意輪寺の本尊で法難をさけて神照寺に来り、昭和二九年合併により本寺に移った。明治初年廃寺となった末寺真浄寺は地蔵巡礼第四番でその地蔵尊立像も安置されている。もと白山谷にあり近世初期現地に移転。御朱印十三石五斗であった。
 妙泉寺(真言宗豊山派)鴇谷。開基日輪寺に同じ。観音堂(今廃)は御朱印五石であった。三三体の観音像がある。本尊大日如来座像は鎌倉中期の製作か。
 針谷寺(日蓮宗)針ケ谷。前述のごとく立鳥の妙竜寺・感応寺・三橋寺が合併されている。妙竜寺は「針谷寺過去帳の寫」には中老日秀の弟子妙竜院律師日質が弘安一〇年(一二八七)十月十三日創立その時日向が開眼説法を行ったと伝え、その十四世の日行が天正五年(一五七七)針谷寺を創立したという。また開闢を天和元年(一六八一)に地頭大野出雲守、立鳥和泉守相議して建立とも伝え、伝承の上に混乱があるようで傍証となるものを欠いている。感応寺は永正十二年(一五五八)と伝え、また三橋寺は永禄元年(一五五八)創立永禄七年(一五六四)二月三橋平左衛門開基と「大野善八記録簿」にある。これは立鳥東谷(屋号カミ)出身だという。なお日蓮真筆の一行(仏トキ給事ナシ仏の教成道ノ時)を現蔵しているが、写本の一行をきりとったものらしく、大庭の伊東家(今亡)の旧蔵を明治年間に寄附したものである。
 大聖寺(真言宗豊山派)針ケ谷。月輪寺末であった。数次の火災に遭って不明。
 西光院(真言宗豊山派)針ケ谷。月輪寺末。
 不動寺(天台宗)高山。笠森楠光院末であった。
 安養坊(天台宗)大庭。楠光院七坊の一で残存する坊はこれ一つである。
 本光寺(曹洞宗)田代。
 延命寺(天台宗)田代。
 妙伝寺(日蓮宗)月川。
 雲頂院(臨済宗妙心寺派)三沢。
 勝蔵寺(真言宗豊山派)篠網。
 月輪寺(真言宗豊山派)稲塚。慶範律師(応永のころ)の創立。もと月川にあり、天王宮(現八重垣神社)の別当寺であった。千手観音(室町期)は紀伊中納言家の宗将卿や、その母などの一族の帰依を受けたというが、この地出身の老女松島の紹介であったらしいことが明和二年(一七六五)の扁額裏書によって推測される。御朱印を頂戴とつたえる小本寺格で末寺十三ケ寺があった。
 番田寺(日蓮宗)力丸。旧顕本法華宗。
 本城寺(顕本法華宗)力丸。境内に観音堂あり。鎌倉期の製作と推測せられる鉄仏准提観音立像が安置されている。もと桜谷、徳増との境界点、狸(むじな)谷の山頂にあったのを移したという。
 広福寺(日蓮宗)国府里。旧顕本法華宗。
 東光寺(日蓮宗)別所。旧顕本法華宗。
 常光寺(日蓮宗)味庄。旧顕本法華宗。
 光明寺(日蓮宗)味庄。旧顕本法華宗。
 常蓮寺(日蓮宗)味庄。旧顕本法華宗。
 常行坊(日蓮宗)味庄。旧顕本法華宗。旧称万福寺。天台宗であったという。
 安楽寺(日蓮宗)船木。旧顕本法華宗。旧真言宗であったが後柏原帝の代(一五〇〇―一五二六)に日安により再建と伝える。昭和十二年山門建立の時に板碑二枚が出土した。現茂原市真名内田秀真氏蔵弘安八年(一二八五)銘がそれであるという。元亨四年(一三二四)の板碑は現蔵せられている。日蓮筆曼荼羅三幅を蔵している。

舟木・安楽寺山門

 安盛寺(日蓮宗)中野台。旧顕本法華宗。
 妙典寺(日蓮宗)上野。旧顕本法華宗。もと真言宗であったが、日泰の改宗運動により転宗したという。かつてこの上野には平将門の館址があったと伝えている。
 明善寺(日蓮宗)西山。旧顕本法華宗。
 妙教寺(顕本法華宗)力丸。
 大正寺(日蓮宗)千代丸。旧顕本法華宗。
 満蔵寺(日蓮宗)山根。旧顕本法華宗。風戸氏の祖満蔵という人の創建と伝う。
 飯尾寺(顕本法華宗)飯尾。飯尾氏の創建。飯尾氏は田原藤太秀郷の裔と伝え中世に室町幕府に仕え田原重光後に政覚と称したが、和歌の功により飯尾の姓を賜わり上総長保郷に居り、以来飯尾邑の名が生じたと伝えている。日什(一三一四―九二)の開山を信ずるならば彼の真間弘法寺を中心に活溌に布教していたころの創立であろうか。なお明治初年に飯尾寺の本堂を報恩寺(長南町)に譲渡し、不動堂を飯尾寺とした。この不動尊は文覚上人自刻の伝承をもち飯尾忠久が鎌倉由井ケ浜にて拾い帰り安置したと伝えているが、縁起(研究編参照)では永正年中(一五〇四―一五二一)と伝え、「飯尾氏系図」ではこの忠久を元禄五年(一六九二)没としている。あるいはこれを正しいとすべきであろうか。この不動尊はその霊験の名が遠近に聞え参拝するものが最近まで甚だ多かった。この不動堂の欄間に名工伊八の竜の彫刻あり、また寛文四年(一六六四)の梵鐘がある。

飯尾寺梵鐘(寛文四年)

 道脇寺(日蓮宗)道脇寺。旧顕本法華宗。もと現長柄小学校の地にあったが地すべりのため埋没した。かつて天台宗に属し、中世以前にさかのぼる古寺だが、現在はそれらを微すべき遺品はない。(古代篇参照)
 西福寺、(天台宗)六地蔵。数回の火災に逢い遺物を存しない。
 眼蔵寺(臨済宗・妙心寺派)長柄山。寺伝によれば長和二年(一〇一三)の創建ではじめ鳴滝寺と号したが、寛元年中(一二四三―一二四六)平秀胤が七堂伽藍を建立し胎蔵寺と改めたと伝え真言律宗であったらしい。室町期に至ると幕府によりて諸山の寺格をもつ官寺となり開山として大覚派の象外禅鑑が迎えられ、上総守護の上杉朝宗が開基となった。足利直義による上総国の利生塔も設立せられていた。現在の妙心寺派に転じたのは、元和五年(一六一九)に没したという大虚和尚のころであろう。境内に上杉朝宗の墓石があり、また弘長四年(一二六四)の梵鐘は昭和五十一年国の文化財として指定を受けた。なお縁起がある(研究篇参照)
 以上でも判るように旧長柄地区の日蓮宗寺院はすべてもとは顕本法華宗であった。日什を派祖とし京都妙満寺を総本山とする宗派で、明治九年に日蓮宗妙満寺派と称し、明治三一年に顕本法華宗と公称した。日什は室町時代初期の人で会津出身、はじめ天台を学んだが日蓮の教義に触れて改宗、中山の法華経寺門流の真間弘法寺の日宗に師事したが、当時の日蓮教学にあきたらず後に離れて独自の教線をはった。後にこの日什門流に属する日泰が土気城酒井氏の帰依を受けて酒井氏の勢力範囲をすべて日什門流の寺院として吸収したのであるが、昭和十六年の政府による宗教統制のため日蓮宗本門宗と合同して日蓮宗となり、後昭和二三年教団離脱単立の途が開かれるに伴ない再び顕本法華宗は独立したが、長柄地区の諸寺院は旧にもどる事なくそのまま日蓮宗と称しているのである。
 上記のうち本城寺(力丸)、飯尾寺(飯尾)は、当時無住であったために、昭和十六年の統合に際し手続きをとらずそのまま旧宗派名をのこして今日に至ったのである。
 以上の寺院として宗教法人として公認せられた以外にも近世からいくつかの堂が残っている。弥陀堂・観音堂(長柳)・不動堂(不動)・不動院(辺田)・無縁堂(金谷)などがあるが、現在は部落の葬儀の時の控所・集会所などに変ったが、近世からつい近ごろまでそれぞれの信仰があったのである。