15 祈りと信仰し流行する神仏

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正規の神社や仏寺のほかに農民の願をこめて多くの祈りやさまざまの神や仏に対する信仰が行なわれていた。そしてそれらの大部分は記録にとどめられる事もなく一時のはやり神、もしくははやり仏として消えて行き、時にはその痕跡として石造遺品を遺すのみにすぎない。
 農村の祈りの最大は、何と言っても五穀の豊穣と家内安全であったが、旱天による米作の被害を防ぐ雨乞いこそもっとも大きな行事であった。むかし旱天続きで田植えも出来ず、大変なことがあった。その時、権現森で雨乞いをする事となり、権現森の見える範囲の村々の半鐘や太鼓などのすべてと、各戸から一人ずつ薪一把を背負い、この山頂で鳴物をならし大声をあげ、炎々と薪を燃やしたところ大雨があったという伝承がある。「黒須家系図」の永正十一年(一五一一)の項に「其夏大旱魃。致延(五十九世)、近郷ヲ集メテ、武神峯ノ山上ニ於テ六月十二日祈雨、大物忌ノ宮、社殿ヨリ大ナル蛇現出テ、大木ノ上ニ飛登ル。忽ニ黒キ雲立テ雨降ル事同十四日ニ至ル。其日晴天トナリ、世上ノ人々大ニ悦ビ尊ヲ信ス。」とあることがこの伝承となって伝わったか、否かは判らぬながら、一際高い山頂に薪を燃やし、大音響を立てる事が雨をよぶ事は充分推測出来ることで、老翁の伝承もあるいはこの遠い昔の信仰を語るかも知れない。
 万延元年(一八六〇)六月、鴇谷日輪寺住職昌法師は二八才、就任したばかりであったが、祈雨の修法の依頼を受けて、天王森の河畔に壇を設けて七日間の修法の最終日の午後、沛然として降雨の験あり、従来の寺と村の紛争が氷解したという(日輪寺蔵水天画像裏書)。このように神社寺院などによる祈願のほかに、日常生活の不安の解消を求め、ある神もしくは仏が、ある短い時期に爆発的な信仰を受けることがある。たちまちのうちに参詣者を雲集せしめ、その後まもなく忘れ去られる。これらの神仏は多く記録にとどめられないが、その痕跡や伝承のいくつかをここで採り上げて見たい。
 皿木の三島神社々前のいくつかの神名を刻した碑のうちに、「安馬大杉大明神、(右)惣村中(左)安永八亥天」とよみとれるものがある。他の「子安大明神」や「道六神」のように、なにを祈願するのか判然としているのに対して、この神名は何びとも不審を抱くであろう。実はこの神は近世のある時期に東日本に大いに流行した神なのである。享保十二年(一七二七)六月上旬、江戸本所の香取神宮の境内に常陸国阿波(あんば)大杉大明神が飛来したといって貴賤群集し、その果、町奉行所が取締りにのり出して、所の名主は過料五貫文を課せられ、以下その中心であった百姓六名も罰金を課せられたことがある。この大杉明神とは源義経の従者の常陸坊海尊をまつった神社ともいわれているが、民俗学の上からもなお不明のところの多い神で、『月堂見聞集』にはむかしから各地に飛来し、上総国久留里のあたりにも飛来し、江戸の各地にも一時流行したという。(40)疫病よけ、作物の病虫害をふせぐものとして利根川沿岸に信仰圏があるが、遠く岩手県から三重県にもこの神名を刻した石があり、この皿木にもかつて安永八年(一七七九)のころ信仰せられた事のあることを知り得るのである。
 一時大いにその信仰が喧伝され、賽者が群をなしたといわれるものに千代丸、大正寺のほとりのみようしよう様があり、店が出るほどの賑いを見せたというが、徳増の城徳寺に妙正大明神の坐像(坐高十三糎)が安置せられており、安永四年(一七七五)の勧請と記され、疱瘡守護の神であることが判明したが、この神の名は他にいまだ見出されず、由来が判然としない。
 このような一時大いに参詣客を集めるものとしては稲荷(いなり)が多いが、その中でも山根のいなりさまが有名である。始めは個人のものであったというが、今日に至るまでも二月初午の日は相当のにぎわいを見せている。文化年間およそ百六十年前に京都の吉田家から神位を頂戴しているというので、もっとも長く信仰を続けた神という事が出来よう。明治二十年八月二十六日のことであるが、巡礼姿のある中年の男が稚児ケ池に投身自殺をとげた。発見した人たちがねんごろに大庭の薬師堂のほとりに葬ったが、その後ふとした事からその墓前に参詣した人に霊験があり、あるいは病が癒り、いざりの足が立つなどと伝えられ、遠近よりおびただしい人びとが群集しその灯明の明りが夜も真昼のごとくあたりを明るくし、その賽銭をかますに入れて運んだほどであった。この参詣も三年ほどで終ったが、この収入で稚児ケ池周辺の山を八反歩買い求めて大庭の区有林とし、今もその命日に菩提を弔うという。
 このような熱狂的な信仰が近世にはしばしば起ったが、時代の進展と共に次第にその姿を消して行ったのは、教育の進展と共に、私たちの周囲の不安の根原が何であるかを科学的に考えるようになった為と思われるが、路傍の石仏や、山頂の石碑なども、かつての私たち先祖の精神生活を語る資料として見直さねばならないと考えられる。