16 死後の世界――墓のこと

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いかに科学が進歩し、人智が開発せられようとも、なお未解決のまま私たちの前に大きく立ちふさがる不安は死後の世界である。ここからあらゆる宗教が発生するのであるが、また昔から今日まで人の死に際しての葬儀の型態はもっとも変らないものの一つであろう。法律で規制したのではないのにかかわらず、今も生きているものに、葬儀に際しての講と組合の問題がある。組合は近所隣の両三軒の日常生活の上でもっとも密接な助け合いをしなければならない組織で、幕府の五人組制度から発するものであるが、そのいくつかの組合が講となって、葬儀に際して援助する習慣がある。
 この歴史的な発生と展開については長い間不明であったが、最近これについての研究が長足の進歩を見せ、大著(41)も刊行せられているので、簡単に説明すると、講とは本来は僧侶集団の中で仏典の講義をし、そこに列席する同信者の集団をいうのであって、文献の上から平安朝中期の慧心僧都のころから始まっている。同信者の死に際しては、その講を共にした者が集って屍体処置から葬儀万端を取り扱ったのであるが、ここから始まって同じ仏を信ずるものの集りも講とよび、題目講、念仏講、あるいは観音講、地蔵講などと数多く遂には無尽講などと一つの目標を達成する為の集まりも講とよばれるようになった。今も死者の生じた家のものはその葬儀についての食事や来客の接待には直接触れず、講組合に属する人たちの手にまかせる習慣があるのは、死がけがれであり、近親者はそのけがれに触れたものであるという、古い信仰の名残りである。
 いまひとつ、この長柄町に残る葬制の一つに両墓制がある。これは、死者の葬る所とまつる所、すなわち墓石を建てるところが別の所である制度をいうのであって、柳田国男氏が昭和の初年になって始めて問題をなげかけられ、多くの研究者がこの問題に取りくんでいるが、なおなぜか、何時からか、などということについての決論は出ていない。長柄町では、稲塚、千代丸、山根、別所、上味庄、舟木、中野台、上野などは埋葬地と石塔を建てる所が別で、大加場、国府里、長柄山などは現在単墓制に変わりつつあると『長柄町の民俗』は、述べているが、長柄山の眼蔵寺周辺の山が削られた時、高橋利男氏方の裏手の墓地が削りとられたあとを見ると、明らかに埋葬したあとが見られ、その上に、宝暦年間前後の年号をもつ五輪塔が発見せられた。とすると両墓制は、本来の古制ではなく、少くともこの長柄町では近世に入っての変化であり、墓地の狹さという事と死穢をおそれる特殊な考え方の流入が原因で両墓制となったのではないかと臆測したが、なおこの問題は未解決のものが多く、将来の広い範囲での調査の結果をまちたいと思う。
 なお大津倉に残る墓制は全く特殊なもので、少くとも現在まで、全国的に報告せられた事のない例である。すなわち男の墓、女の墓が別である事で、これは大津倉地区のみで長柄町には他に見出せない現象である。大津倉の柳生谷(やぎゅうやつ)は十戸であるが、その墓は約三〇〇米をへだてている。夫婦であっても全く別の墓に葬られるのであって、男の墓には安永二年(一七七三)文化十二年(一八一五)など、女の墓には宝暦四年(一七五四)文化七年(一八一〇)などの石碑があり、以後今日までに及んでいる。また千光院裏には男の墓、槻木観音堂前には女の墓があり、この場合も約三百米以上離れた地であり、また阿弥陀堂側の場合は傾斜面に上段に男、下段に女と別れている。立鳥大野善八家ではかつて男は妙竜寺(立鳥・今廃)、女は妙楽寺(茂原市箕輪)であったが、明治十一年より男女同寺としたというが、この場合も葬儀回向の僧が異ったのであって、埋葬の墓地は屋後の同一地であり、同一の菩提寺の一家の夫婦でありながら別の地に埋葬することは従来全く他に類例を見ない風習といわねばならない。(42)
 その原因は何故であろうか。柳生谷の場合、男の墓は中央に塚があり、墓石はその周辺をめぐって建てられているが、その塚の中央に「安永八年十月大吉日、奉納大日如来」とある碑があり、墓所の入り口に年号不明の「(右)月山(左)羽黒山(中央)湯殿山三所大権現」の碑があり、「行者・大津倉講中」と刻まれている事がこの別葬の理由を語っているかと推測される。出羽三山参拝の行人が、別に埋葬された墓を持つ例は他にも散見されるが、この大津倉の別葬もあるいは三山に詣でた行人が別に葬られる例が、拡大されて男女別葬となったのではなかろうか。女性はけがれたものであるという古い宗教の伝統的考えがまた、この背後にあることが考えられるが、全国的にその類例を求めて解決されねばならない点かとおもわれる。