いま一つは未成年の幼児、少年の死没の後百ケ日にあたるころ、寺院や路傍にまつられてある百体の地蔵尊に札一枚づつを献礼する風習で、日蓮宗以外の旧日吉水上地区で行われ、その札は今も日輪寺(鴇谷)月輪寺(刑部)で出されている。これらは不特定のものを対象とする巡拝だが、それ以外に特に巡礼の対象を決めて巡ることがあった。
すなわち上総国八十八か所霊場巡拝で、君津市中島の成願寺より始まり、鹿野山の神野寺を終りとしており、四国八十八所にならって真言宗の弘法大師を安置した寺院を巡礼するのである。成願寺にはその碑が立てられており、それによると弘法大師九百五十年忌に際して同寺の第四九世の住僧秀善(享和三年没)が中心となり、天明五年(一七八五)決定したことが判明する。長柄町では第三六番慈眼寺(刑部)第三七番月輪寺(刑部)第三八番大聖寺(針ケ谷)第三九番・妙泉寺(鴇谷)第四〇番日輪寺(鴇谷)があった。それぞれ、四国の同番の寺院の御詠歌が唱えられた。
さらに、最近は全く廃絶したが、地蔵巡礼があった。刑部の神崎又右衛門の夫人が子の無いのを憂いて地蔵尊に祈り、夢の告げで地蔵巡礼を始めたと伝え、元文二年(一七三七)のころであるという。西上総五〇番南上総五〇番、北上総三六番で、長柄町では第一番眼蔵寺(長柄山)第二番地蔵院(六地蔵)第三番東福寺(長富)第四番真定寺(鴇谷)第五番地蔵堂(金谷)第六番延命寺(田代)第七番槻木地蔵堂(大津倉)これから長南方面に出で、終りの第三五番雲頂院(三沢)第三六番勝蔵寺(篠網)で終っている。これらの中には廃絶した寺堂もあって詳細は不明であるが、この長柄の場合はその跡を辿ることが出来る。徒歩でこれらを巡ることは、単なる娯楽のための旅行が禁止せられていた当時の人たちにとっては、見聞をひろめる唯一の機会であったであろう。
しかし明治の維新を迎え、近代の科学的な教育の普及と、めまぐるしい時代の動きは、立ち止って内省し、神仏に帰敬する精神を一挙に失なわせてしまったのであった。次にそれらの今日にもつながる近代への長柄の動きに目を注ぎたい。
註
(1) 刑部 内藤正雄家文書
(2) 舟木 矢部泰助家文書
(3) 針ケ谷 酒巻政雄家文書
(4) 舟木 矢部泰助家文書
(5) 立鳥 安藤文也家文書
正徳四年 立鳥村掟書
(6) 刑部 内藤正雄家所蔵 延享四年刑部村五人組帳前書
(7) 本庄栄次郎編『近世人口問題史料』
(8) 同前
(9) 立鳥 安藤文也家文書
(10) 刑部 村上忠義家文書
(11) 針ケ谷 小倉正男家文書
(12) 『新版郷土史辞典』大塚史学会編
(13) 角川 日本史辞典
(14) 同右
(15) 針ケ谷 小倉正男家文書
(16) 同右
(17) 立鳥 安藤文也家文書
(18) 刑部 内藤正雄家文書
(19) 針ケ谷 小倉正男家「御取締御触書規定連印写」
(20) 高山 清田富貴枝家文書
(21) 徳増 宍倉季麿家「借用金配当帳」
(22) 小榎本 渡辺泰之家文書
(23) 舟木 矢部泰助家文書
(24) 高山 大田チエ子家文書
(25) 刑部 内藤正雄家「年々用留」
組合御村々御調印帳 徳増村
各様益御そふ見御勤役被遊御座恐悦至極ニ奉存候然者私組下百姓□兵衛実子△蔵与申者平生身持不宜もの御座候ニ付組合親類之者共異見教諭ホ仕候得共素ゟ気紛者ニ御座候故兎角悪事ニ携改心不仕右様之不埓之者此儘村方江イ(ママ)居候而者後難も無覚束就之此度無余儀其御筋江御届仕△蔵儀除帳仕候間為後証組合御村々御役前御調印を願上度何卒御堅(ママ)察之上御調印之程奉希上候以上
文久四年 伊沢美作守知行所
甲子二月 日 徳増村
名主 信太郎
百姓願人 □兵衛
組合惣代 三左衛門
親類惣代 重蔵
(26) 国府里 高吉基家文書
(27) 針ケ谷 酒巻政雄家文書
(28) 桜谷 仲村多治見家「御用留」
(29) 同右
(30) 榎本 小倉格家文書
(31) 『千葉県の歴史』川村優・小笠原長和著
(32) 桜谷 仲村多治見家「御用留」
(33) 同前 「御用留」
(34) 舟木 矢部泰助家文書
(35) 針ケ谷 小倉喜与巳家文書
(36) 桜谷 仲村多治見家用留、刑部内藤正雄家年々用留、針ケ谷 小倉喜与巳家文書等
(37) 房総叢書第十巻
(38) 『日本交通史概論』大島延次郎著
(39) 鴇谷 石川巌家蔵
(40) 『撰要永久録』『武江年表』及び清原貞雄『神道史』宮田登『近世の流行神』
(41) 桜井徳太郎『講集団成立過程の研究』柳田国男『山村生活の研究』
(42) 従来の墓制関係の著書論文では全く触れていないが印旛沼周辺または木更津市の山間部にはこの例があるという。
(43) 中村孝也『常楽院日経門流殉教小史』『常源院日進小伝』『日什門流宗門史資料要集』『日什門流殉教先師資料集』((1)-(4))など。
(1) 刑部 内藤正雄家文書
(2) 舟木 矢部泰助家文書
(3) 針ケ谷 酒巻政雄家文書
(4) 舟木 矢部泰助家文書
(5) 立鳥 安藤文也家文書
正徳四年 立鳥村掟書
(6) 刑部 内藤正雄家所蔵 延享四年刑部村五人組帳前書
(7) 本庄栄次郎編『近世人口問題史料』
(8) 同前
(9) 立鳥 安藤文也家文書
(10) 刑部 村上忠義家文書
(11) 針ケ谷 小倉正男家文書
(12) 『新版郷土史辞典』大塚史学会編
(13) 角川 日本史辞典
(14) 同右
(15) 針ケ谷 小倉正男家文書
(16) 同右
(17) 立鳥 安藤文也家文書
(18) 刑部 内藤正雄家文書
(19) 針ケ谷 小倉正男家「御取締御触書規定連印写」
(20) 高山 清田富貴枝家文書
(21) 徳増 宍倉季麿家「借用金配当帳」
(22) 小榎本 渡辺泰之家文書
(23) 舟木 矢部泰助家文書
(24) 高山 大田チエ子家文書
(25) 刑部 内藤正雄家「年々用留」
組合御村々御調印帳 徳増村
各様益御そふ見御勤役被遊御座恐悦至極ニ奉存候然者私組下百姓□兵衛実子△蔵与申者平生身持不宜もの御座候ニ付組合親類之者共異見教諭ホ仕候得共素ゟ気紛者ニ御座候故兎角悪事ニ携改心不仕右様之不埓之者此儘村方江イ(ママ)居候而者後難も無覚束就之此度無余儀其御筋江御届仕△蔵儀除帳仕候間為後証組合御村々御役前御調印を願上度何卒御堅(ママ)察之上御調印之程奉希上候以上
文久四年 伊沢美作守知行所
甲子二月 日 徳増村
名主 信太郎
百姓願人 □兵衛
組合惣代 三左衛門
親類惣代 重蔵
(26) 国府里 高吉基家文書
(27) 針ケ谷 酒巻政雄家文書
(28) 桜谷 仲村多治見家「御用留」
(29) 同右
(30) 榎本 小倉格家文書
(31) 『千葉県の歴史』川村優・小笠原長和著
(32) 桜谷 仲村多治見家「御用留」
(33) 同前 「御用留」
(34) 舟木 矢部泰助家文書
(35) 針ケ谷 小倉喜与巳家文書
(36) 桜谷 仲村多治見家用留、刑部内藤正雄家年々用留、針ケ谷 小倉喜与巳家文書等
(37) 房総叢書第十巻
(38) 『日本交通史概論』大島延次郎著
(39) 鴇谷 石川巌家蔵
(40) 『撰要永久録』『武江年表』及び清原貞雄『神道史』宮田登『近世の流行神』
(41) 桜井徳太郎『講集団成立過程の研究』柳田国男『山村生活の研究』
(42) 従来の墓制関係の著書論文では全く触れていないが印旛沼周辺または木更津市の山間部にはこの例があるという。
(43) 中村孝也『常楽院日経門流殉教小史』『常源院日進小伝』『日什門流宗門史資料要集』『日什門流殉教先師資料集』((1)-(4))など。