1 農村の変ぼう

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天明の大飢饉の打撃は一向に回復せず、農民は疲弊し、貧富の差は拡大するばかりであった。富裕地主への土地の集中は早くから始まっている。刑部村の名寄帳(1)に、「宝暦六年 極月、誰某ヘ質流地ニ相渡候」といったように加筆された田畑を数多く見ることができる。宝暦期には既に相当土地の兼併が進んでいたことを示している。それは、江戸幕府創草期の旧地主から新興地主への移行過程でもあった。
 表は、舟木村市岡給八軒の農家の享保一〇年(一七二五)と天保一一年(一八四〇)の田畑屋敷地の面積を比較したものである。享保一〇年には、最高所有面積一町四畝一〇歩、最低四反三畝二八歩であったのが、天保一一年には最高一町六反一畝二歩、最低は一畝二二歩と極端に差がついている。最低のD家は、享保一〇年には七反七畝一七歩を有していたのに転落してしまった。耕地の多くは、A・C・G家に集中したが、他給の百姓の手に渡ったものもある。躍進著しいのはC家であった。
享保10年舟木村御水帳之写・天保11年舟木村田畑銘々取附改帳
(矢部泰助家蔵)舟木村八反目(市岡給)家別田畑屋敷面積の変化
享保10年舟木村御水帳之写・天保11年舟木村田畑銘々取附改帳(矢部泰助家蔵)
舟木村八反目(市岡給)家別田畑屋敷面積の変化
年 代田 畑屋 敷
A家享保10年
 

9

4

27

 

 

9

13

1

0

4

10
天保11年151199131612
B家享保10年7219147323
天保11年2529152614
C家享保10年431274328
天保11年1072022011010
D家享保10年75241237717
天保11年11210122
E家享保10年4941105014
天保11年2125202215
F家享保10年8324108424
天保11年94110951
G家享保10年808168114
天保11年10228161044
H家享保10年6822407222
天保11年12530155
享保10年56892035892
天保11年51719182453613
享保10年の入作1反8畝13歩・天保11年の入作3反3畝10歩

 耕地面積の少ない舟木村には大地主はなく、平均した耕地を持つ中堅的百姓が多かった。豊かではないが、貧富の差は少なかったのに、天保期には水呑同様の者がふえている。このことは、一般的にいわれている本百姓の分解過程を如実に示すものである。文化・文政期から天保・安政期にかけての質地証文や金子借用証文がおびただしく残されている。年貢上納その他の諸入用に差迫っての借金が返せないまま、耕地は貸主のもとへ集中していったのである。
 零細化した百姓は、奉公稼ぎに出るか、村に止まって農日傭(のうびよう)に出る以外に生計の道はなかった。一方、地主は、農繁期に臨時の労働力を大量に雇い入れることができたので、より大規模な農業経営が可能となった。一種の農村プロレタリアートが発生したわけである。