2 貨幣経済の浸透

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衣・食・住にわたり自給自足を原則とした農村にも、貨幣経済の波は容赦なく押寄せて来た。年貢を現物で納めていたものが石代納となり、金銭で上納するようになった。小物成や諸役銭は早くから金納であった。そのため、米は地方相場(じがたそうば)(所(ところ)相場)で売払われた。
 一方、京・大坂や江戸のような大都市を中心に動いていた商品も、急速に農村へ流入して来た。商品生産は、最初は百姓の農間渡世に過ぎなかったが、財政窮乏にあえいだ諸藩がその利潤に目をつけ、さかんに商品生産を奨励するようになった。また大都市の商人も、織機や糸を農家に貸し与え、農間に布を織らせてこれを回収し、大量に売りさばくような商法を考え出した。更には、労働者を工場に集めて、手工業ながら近代的工場生産も行なわれるようになった。しかし、領主は専売制で利潤を吸い上げ、大商人は僅かな手間賃を払うだけで利益を独占し、百姓の収入は微々たるものであった。このように、農民の犠牲により諸国に特産物が続出した。西陣織・灘の酒・紀州みかん・宇治茶・阿波の藍玉(あいだま)・肥後の蝋(ろう)・最上の紅花(べにばな)・尾張の瀬戸物などが有名である。
 江戸時代の経済は大坂を中心に動いたが、江戸も公方様のお膝元として、一八世紀初めには人口も百万を越え、参勤交代の武士や奉公人でごったがえす一大消費地となっていた。その需要に応ずるため、江戸地回りの特産品が多量に生産されるようになった。江戸近郊では、練馬大根をはじめ野菜作りが発達し、「初物」「走り物」といわれる早期栽培や促成栽培まで行なわれるようになった。遠郊では、八王子の織物、銚子や野田の醤油(しょうゆ)、佐原や流山の酒、行徳の塩、川口の鋳物などが知られている。
 このような情勢の中では、郷土といえど商品と無関係な生活は許されず、金銭がなくては日常生活も過せなくなった。江戸初期に開かれた茂原村の六斎市(ろくさいいち)は年々盛んになり、社寺の縁日にも市(いち)が立つようになった。しかし、商品経済に直面しても、適当な換金作物がなく、有力な手工業をもたない郷土の人々の生活は苦しくなる一方であった。