土地を失い生計の道を断たれた農民は、郷里から欠落(かけおち)出奔し、都市や宿場・河岸場(かしば)などへ流れ込み、そこで職を得られぬ者は非人や乞食(こじき)に身を落とすか、または無頼(ぶらい)の徒と化していった。このような浮浪の者は、その場限りの快楽を求め、文政から天保にかけて博奕が大流行した。有名な博徒の親分といわれる者が輩出したのもこの期である。幕府は、博奕の禁令をしばしば発したが効果は少なく、長脇差を帯びた博徒が横行した。山之郷の白旗神社でも、祭礼の日に盛大な賭場が開かれ、ふだんでも江戸街道を往来する旅人目あてに、筵張(むしろばり)の囲いの中で賭の勝負が争われたと伝えられている。
このようなことは、幕府の威信にかかわることであったが、関東の所領形態は天領・旗本領・大名領・寺社領が犬牙錯綜し、また、代官や旗本は独自の警察力をもたなかったため、悪党共は意のままに暴れ回ることができた。そこで幕府は、文化二年関東代官配下の有能な手附・手代を選び勘定奉行直属とし、関八州(水戸領を除く)御料私領の区別なく踏込む権限を与え、文政一〇年(一八二七)には給に関係なく改革組合村を編成し関東取締出役に直結させた。
関東取締出役は、犯罪者の検索だけでなく村方の動向にも目を配った。かの大原幽学が、下総国香取郡において荒廃した農村を救うべく努力したのに対し、関東取締出役は却ってこれに弾圧を加えている。有効な農村復興政策を何ひとつ持たぬ幕府が、有能な農村指導者を圧迫するなど、まさに幕藩体制の動脈硬化を示すものである。幽学は、決定的罪状のないまま放免されたが、安政五年三月七日悲憤のうちに切腹して果てた。関東取締出役の設置は、一応警察力の増強となったが、博徒や無宿者は彼等独特の情報網をもち、なかなか捕えることができず、農民子弟の風聞宜しからざる程度の小者を捕えるに過ぎないことが多かった。かの上州の博徒忠治の捕縛も彼が中風で寝込んでからである。その上、出役の手先や道案内人の中には、権勢をかさに横暴な振舞いをする者が多く、村役人はその応待に苦しむようなこともあった。
このような有様であったので、治安維持のための布令が繰返し出されている。文政九年(一八二六)に、無宿者はもちろん、百姓・町人が長脇差を帯し、または所持して歩き回るときは死罪その他の重科に処す、と触れたが、悪党どもが長脇差を用いて争うような事態は後を断たなかった。関東取締出役のことを、人々は八州回りと呼んだ。手不足を補うため、村々を回って取締りに当たったからである。