文政一〇年(一八二七)関東全域に、「御取締筋御改革」について長文の触があった。文化・文政期に出された農民統制の布令を集大成したものである。この中に新しく、組合村の編成と囚人送り費用負担の件が加えられてあった。これは、治安対策のために取上げられたもので、領主と関係なく、地理的便宜によって隣接した数か村を小組合とし、数箇の小組合を合せて大組合を結成させ、中心になる村に寄場(よせば)を置き、寄場名主を任命した。大組合村の代表を大惣代、小組合村の代表を小惣代と称した。これ以後、刑部村組合の榎本村といったように呼び、また、刑部村組合大惣代刑部村名主喜代次郎のように称した。刑部村名主といった場合は領主に直結した職名であり、その者が刑部村組合大惣代に任命された場合、関東取締出役の支配に属した。
川村優氏の研究(2)によれば、文化一二年(一八一五)既に関東取締出役の指令で改革組合村が編成されていたという。従って、改革組合村は、文政一〇年に至って突如出現したものでなく、段階的に、実験的に編成が進められていたものと考えられる。例えば、囚人送りの費用にしても、従来は捕えた村で負担しなければならなかったので、悪党が村へ舞込んで来ても、要領よく次の村へ送り込むだけで、これを捕えて突出そうとはしなかった。犯人の探索にしても、細分支配されていた郷土の村々では、他給へ他給へと逃げ込まれ容易に捕えることができなかった。統制を強化し、治安を確保するには、領主と関係なく村を再編成し、これを関東取締出役に直結させる以外に方途がなかった。
郷土の村々は、次の三組合に編成された。
刑部村組合(一七か村)寄場刑部村
刑部・田代・大津倉・大庭・高山・笠森・深沢・金谷・針ケ谷・初芝・立鳥・鴇谷・長富・桜谷・徳増・榎本・小榎本。
茂原村組合(二六か村)寄場茂原村
茂原・上茂原・高師・小林・長尾・押日・長谷・内長谷・鷲巣・箕輪・国府関・真名・芦網・庄吉・黒戸・大登・山崎・綱島・八幡原・須田・力丸・千代丸・国村里・山根・舟木・味庄。
残りの村々については地元史料が発見されないが、『白子町史』に長柄山村組合七か村とあるので、長柄山・皿木・六地蔵・山之郷・中之台・上野と山根村の枝郷道脇寺と考えられる。当初、四五か村単位を目標としたが、諸般の事情で大小様々な改革組合が編成された。
改革組合村は、治安維持を直接のねらいとし、大惣代・小惣代を関東取締出役に直結させたのであるが、次第に経済統制や思想統制、風俗取締りにも手を伸ばした。商人や職人の調査、物価や手間賃の統制、村の祭礼・芸能から若者仲間や講集団、更には冠婚葬祭等の私的な行事にまで統制を加えた。もちろん、一揆などの動向には一番神経を使った。しかし、農村の伝統や習慣は簡単に変えられるものでなく、治安の面においても、無頼の徒の横行は絶えなかった。