5 村方騒動

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天保七年一二月(一八三六)徒党の禁止並びに、その取締りについての厳重な御触が、老中松平和泉守乗寛から出された。この御触の写は村役人宅前に張り出され、かつ総百姓小前に至るまで連印して違乱のない旨請書(3)を差出している。
 「当秋以来米価高値ニ付、人気(じんき)穏かならず、関東筋所々ニおいて困民共党を結び、企いたし候趣ニ付、専ら取締り心懸ケ」もし教諭しても聞入れぬときは、「切捨て又ハ玉込め鉄炮を以て打っても苦しからざる」段を、関東に領分を有する面々に申渡したものである。天保期には、一揆、打ちこわしが続発していた。
 越訴(おっそ)・強(ごう)訴・一揆・打ちこわしに対する警戒、即ち徒党の禁は、幕府や諸領主の最も意を用いたところである。従って、徒党の禁令はしばしば発布されている。

天保7年御触書(山根 畠山金夫家蔵)

 農民騒動は房総の地にも発生した。『千葉県史』(明治編)によれば、近世を通じて二三回起こっている。中でも承応元年(一六五二)から始まった佐倉惣五郎事件、正徳元年(一七一一)から始った安房北条一万石屋代領の万石騒動、明和八年(一七七一)から始まった安房勝山酒井領の忍足(おしたり)左内事件などが有名である。この三件は、何れも、大名領に発生したもので、旗本領には大規模な騒動は見られない。原因は、重税に対する反抗であり、それぞれ名主層が先頭に立ち、その犠牲によって目的を達成している。しかし、江戸末期となると様相が変ってくる。支配者の圧制に対する反抗だけでなく、村役人や富裕な地主あるいは商人に矛先が向けられてきた。従って、騒動の主体も貧農・日雇・奉公人など土地を失った階層が中心となっている。『千葉県史』(明治編)所載の、房総の百姓一揆年表を見ると、凶年に米を買占めた富商や地主に対する打ちこわしや村役人の不正の告発など、年貢減免運動以外の原因が多くなっている。
 郷土においては、史料で見る限り大規模な騒動はなかった。しかし、打ちこわし一歩手前の小前と地主の対立はいくつかみられる。
 万延元年(一八六〇)閏三月、国府里村では小前百姓と地主の間に、相当尖鋭的な対立があった。国府里村小前百姓一九人は、田植え時季の夫食(ぶじき)に差詰り、組頭三人を通して重役新左衛門に三〇俵の借米を申込んだ。新左衛門は、一五俵だけ貸すことを承諾した。しかし、小前一同は、三〇俵は是非とも必要だとして、再々組頭たちに仲介を頼んだが断られた。そこで、今度は中前百姓五人に頼み、後七俵も貸してもらいたいと願った。中前五人は承知して組頭方へ頼みに行ったが、組頭どもは再び斡旋を断った。困った小前一同は、中前五人に対し「貴公方五人で、金五両才覚して欲しい」と頼み入れたが、これも断わられた。そこで、ひと先ず重役新左衛門から一五俵を借り受けようとして、小前惣代の者が組頭衆のもとへ出向いたが、「お前たちが直接来るのは筋違いである。先ず、中前五人をよこすように」と申渡された。このあたりから事態が紛糾してくる。組頭どもにすれば、折角一五俵借米の斡旋をしてやったのに、次には中前五人に頼んで追加七俵の借米を申入れて来たことが面白くなかったのであろう。中前は組頭から叱られたかもしれない。とに角、何事か重役にざん言したのか、遂に一俵も借りることができなくなってしまった。
 このことは、端境期までの食糧がなくなったことであり、生きるか死ぬかの境に立たされた小前一同は憎しみを込めて議定(4)した。夫食借用一件に加わった小前一九人は、「何事ニ限らず油断無く相互ニ心掛け申すべく候。若し又議定之人数之内ニて、一条之義ニ付村役衆、中前之者共より何等之筋合申掛け候節ハ、相互に救い合わせ申すべく」議定した。中前百姓に対しても憤りは烈しく、五人の中前は、「一先ず小前拾九人之為ニも相成り候得ども、村役人ニ申惑わされ、後日ニ拾九人え難渋相懸け候間、後代之子々孫々、其心得之事」とある。中前も完全に闘争相手に転化している。この件は、過程はともあれ、結果的には組頭及び中前百姓と小前百姓一九人の対立であり、小前だけで議定書をつくったところに特徴がある。それは、村内の有産階級と無産階級の衝突であった。

万延元年 扶喰一条ニ付差縺之次第
(国府里 高吉基家蔵)


万延2年 扶喰差縺の訴状(山之郷 成島孝太郎家蔵)

 幕末になると、村役人や地主を、そう恐れない気風が一般化している。天保年間、鴇谷村日輪寺は無住であったので、寺領の田畑は鴇谷村百姓庄次郎が引受け年貢を上納していた。この田畑は庄次郎が耕作せず、二人の百姓に小作させていた。天保五年、この小作米四俵二升四合と銭四七二文が滞納となり、致方なく庄次郎が年貢米銭を弁納した。その後、度々催促したが埓(らち)が明かず、翌六年七月二六日、遂に地頭所へ出訴した。「右躰之者共、其儘(そのまま)捨て置き候てハ、外小作人共右悪例見習い、自然と御年貢相滞り候様相成」(5)る恐れがある、と訴状に書かれている。
 小作百姓の困窮から小作米銭の滞納が多くなっていた。安政六年、山之郷村は風災を受け、地頭所から米一五俵の下給を受けた。しかし、それだけでは足りないので、村役人が相談の上、米五俵をくめんし、これに○右衛門が五俵を足して計一〇俵を申年(万延元年)の暮まで無利息で貸し与えた。このことを聞いた地頭所では、更に米五俵を下給した。この五俵について、○右衛門は、村役人にのみ話し小前一同に披露しなかったのである。村役人たちは貸米一〇俵が全部返納されてから小前一同に割り合おうと考えていた。あるいは、恒常的に飢餓状態にあった小前から貸米の返済は完全に期待できないので、その分として保留しておいたのかもしれない。ともあれ、地頭から更に米五俵が下げ渡されたという風聞は小前一同の耳にもはいり、騒ぎが持ち上った。小前一同は△次郎を惣代に立て、訴訟騒ぎになりそうになったとき、滝口村、上野村の役人たちが扱いに出て、米五俵を小前一同に割合い、事は落着した。(6)
 このように、村役人のいかなるミスにも、下級農民が容赦なく突込んでいける時代となっていた。その代表的なものが、文久三年(一八六三)五月の田代村の「虫送り不参のもつれ」(7)である。
 田代村は、村高一五〇石余の内、水野要人知行所八六石余、大久保帯刀知行所六六石余りの二給であった。大久保給名主仁右衛門は、五月二八日の虫送りに地頭用向きがあって不参した。これに対し、小前百姓どもが不参をなじり、酒代をねだり取ろうとした。
 近世の作物災害の原因は、冷害・干害・水害とともに虫害が大きなウエートを占めていた。虫害対策は、火をたき、鐘・大鼓を打ち鳴らし、且、祈って追い払う以外になかった。後、この行事も形式化し、虫送りにことよせて村中が集り宴会を催すような年中行事と化していた。この年の田代村の虫送りも宴会が中心であった。それでも、仁右衛門の不参は、先祖伝来の習慣を破る不遜な態度として受け止められた。
 虫送りのあった二八日夜、仁右衛門組下の百姓□右衛門と、水野知行所百姓△右衛門の倅○蔵の二人は、仁右衛門組下百姓新兵衛・多右衛門に仁右衛門不参の理由をただし、更に仁右衛門組下の半治郎方へ押しかけ、半治郎に、仁右衛門と交渉して酒代を出させるよう押しつけた。しかし、半治郎は、自分の名主のことであるとして断ったところ、半治郎に種々難題を吹き掛け、酒代として金二朱を取上げた。仁右衛門のところにも、水野給の小前百姓が掛合いに来たが、穏便に事を済ませようと説諭して帰した。
 六月一日夜、名主仁右衛門が所用があって組頭次郎左衛門宅へ出向いたとき、相給小前の者どもが大勢、棒や槇木(まき)などを持って集まり、水野給名主の伜や組頭の伜らが代表として仁右衛門と会い、不参を詑び、酒代を出すことを要求した。徒党を前にして恐れをなした仁右衛門は、一応承知して逃げ帰り、改めて関東取締出役の回村先へ出訴した。

文久3年 田代村虫送り不参のもつれ訴状(田代 鶴岡仁一家文書)

 このことは、名主の権威の低下であるとともに、相給村のむずかしさを示している。領主が大身であるか小身であるかにより、百姓の態度が違ってくる。大旗本の知行所の百姓は小旗本の百姓より威張り、天領の百姓は更に高慢であったといわれている。訴状の中で仁右衛門は、「大久保給は小高のため、平常から万事控え目にしているのに、このような難題を申掛けられた、」と憤慨している。それにしても、相給の名主や組頭の伜まで加わっていることから、対立の根はもっと深かったと考えられる。
 ちなみに、村の集会や行事に欠席した場合、欠席の詑びに酒を買うという習慣は、今でも郷土の各部落に残っているところもある。