6 治安の乱れ

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関東在々の天領・旗本領の治安維持は、村役人に委ねられていた。このような手薄な治安体制も、公儀の威光が強大であった頃は事無きを得ていた。しかし、幕府の統制力が衰退するにつれて、博徒の横行や凶悪な犯罪が増加し、ために関東取締出役が新設された。これとても、一定地域の常置警察力でなく、広範な地域を担当して回村するものであり、瀕発する犯罪に手の施しようもなかった。後に出役の駐在地が定められたが、担当地域は相変らず広く、手の回らぬことに変わりはなかった。郷土の村々で恒常的に手をやいたのは、物乞いの浪人であった。江戸時代には、主家の取潰しや、故あって禄を離れた失業武士が多数存在した。彼らは、先祖代々の浪人であっても、刀を捨てて町人となる者は少なく、武士という身分にすがりついていた。寺子屋の師匠や剣術の師範など定職をもっている者はよいが、多くは内職で糊口をしのぎ、遂には衣食に窮して博徒の用心棒や物乞いに落ちる者も多かった。世が太平であればある程彼らの生活は逼迫し、犯罪の温床ともなった。
 安房国相浜村名主嘉右衛門の「諸色覚日記」(8)には、おびただしい数の浪人が村へ流れ込んだことが記録されている。明和元年(一七六四)の記録に「申(さる)十一月朔日(ついたち)、遠国(おんごく)浪人壱人参り拾弐銅合力(ごうりき)」、「申十一月十二日、牢人壱人日暮ニ御出、下ノ伝三郎方ニ御一泊成され候。翌十三日布良村え御移り、」とある合力銭を与えたり宿泊させたりしている。村によっては、浪人用の鳥目(ちょうもく)を惣百姓から集め、更に浪人との応接人も定めておいて、なるべく速かに村外に去ってもらうよう努力したところもある。合力を仰ぐといっても、結果的には物乞いであるから金額は少ない。そこで、多額の金銭を詐取するため、幕府役人と偽って回村し、諸役銭を徴集する者まで現れた。
 「遠藤兵右衛門御代官所、上総国長柄郡大庭村え、当正月十六日侍体之者隣郷内田村より村次ぎニて参り、御尋者(おたすねもの)これ有る旨申聞き、町奉行下知書之由半紙之帳面読聞き、房州辺へ遣し候目明(めあかし)四人之雑用、高百石ニ付銭百文ヅツ差出すべき旨申聞き候得共、支配え相届け候上差出すべき旨挨拶ニ及び候処、左候(さそうら)ハバ当三月中請取に参るべき旨申すニ付、隣郷笠森村え継送り候由右村方より訴え出候間、重ねて罷越し候ハバ其所ニ留置き、早速訴え出べき旨申渡し候。……中略……勿論右村ニ限らず、外村々ニても右類之心得違い間々これ有る趣申聞き、如何ニ候間、以来烏乱(うろん)成るものハ其所ニ留置き、早速訴え出候様、銘々支配所村々え仰せ渡さるべく候。以上」(9)
 明和元年二月、勘定奉行から各代官所への布達である。同じような事件が、武州新座郡上新倉村でも起こっている。幸にこの両村とも被害は免かれたのであるが、奉行所下役と偽っての金銭徴集や無銭宿泊には、その真偽の判断に村役人も困惑したであろう。封建社会において上役人や帯刀している者は、農民にとって最も苦手であった。
 幕府も浪人どもの横行を捨てておいたわけでない。安永三年(一七七四)一〇月に「苗氏帯刀いたし候ものヘハ、一銭之合力も致すまじく候」と触れている。しかし、浪人どもの徘徊は絶えず、天保一二年(一八四一)天保一四年、弘化四年(一八四七)と同様の触が出ている。天保期には、「近来帯刀いたし候浪人体之もの所々え大勢罷り越し、村方之手ニ及びがたい」(10)このようなありさまとなった。
 このように、明和期から農村は食いつめ者の稼場であったが、安政期以降になると一段と騒がしくなってきた。安政七年、関東取締出役からの回状(11)に次のような要旨のものがある。
一、怪しい者が徘徊していたら早速名主方へ申達し、後をつけて落着先を確め、寄場役人または惣代へ届け出ること。なお、村ごとに怪しい者と掛け合うにふさわしい者を定めておくこと。
一、村ごとに名主宅へ太鼓を用意して置き、怪しい者が立回り、不審な所業があったら打鳴らすこと。太鼓の音を聞いたら、村ごと寺社の鐘を打鳴らし、銘々用意の品を持って駆けつけること。
一、堂・寺社の者には、平生から鐘・半鐘打鳴らしのことを申含めておくこと。
一、銘々が駆けつけるときは、拝借鉄炮所持の者は持参すること。鐘や板木は村々の組頭宅に手順よく用意しておくこと。村々の番非人へも申しつけておくこと。
 悪党が立回ったときは、大勢で騒ぎ立てるような指示は以前からあったが、処置法がきわめて具体化されている。
 幕府滅亡も間近な文久年代となると、浪人者だけでなく小悪党まで偽役人となって回村している。文久四年(一八六四)二月四日、関東取締出役からの回状(12)に次のようなものがある。
 「火附盗賊改組小ものの由申成り、木銭帳持参、宿村え休泊致し候ものこれ有る由相聞き、真偽相わかり難き趣ニ付、以来別紙印鑑これ無き者ハ、休泊ハ勿論、取敢え申すまじく候。」
 関東宿場在々を回村する下役人の真偽判断のため、照合用の印判を寄場村々へ配布しておいたのである。このときの偽役人は、仲間のひとりを囚人に仕立て、繩付きのまま連れ歩き、木銭帳を一冊持参して大勢で泊る。その上、御用状を示して継立人足馬まで差出させていた。これでは、偽役人と見破れないのは当然である。
 一方、関東取締出役回村の際の道案内人の中にも、権力をかさに不正を働く者が絶えなかった。道案内人は、元々村役人級の者が勤めていた。寄場刑部村では、天保一五年以降大惣代喜代次郎が勤めていたが、嘉永五年に交代している。どの寄場でも、次第に地理に明かるい百姓がこれに当たるようになり、中には、遊人体の者が道案内人を勤めるところもあった。彼の博徒飯岡の助五郎も道案内人であったといわれている。道案内人は、関東取締出役に届け出て、その承認を受けてから任命されるのであるが、いかがわしい人物がふえるにつれて、彼等の不正が問題となってきた。文久三年二月、関東取締出役から、「道案内の者の内、風俗が宜しくない者があると聞くが、向後は身分を固く慎み、風儀を正すよう」との教諭書(13)が出されている。いつの時代にも、権力をかさに不正を働く者は絶えないが、取締出役自体がごく身分の低い手附から選抜された者であり、職権をもって横暴な振舞いをする者もあり、村方では悪党共と取締役人と両面から苦しめられることもあった。
 刑部村名主内藤三郎兵衛の「年々用留」(14)で目につくのは囚人送りの記録である。関東取締出役の手先その他により逮捕された囚人は、出役の駐留地または江戸へ送られる。刑部村は寄場であったので、護送役人と囚人がよく泊った。その場合、夜間は寄場で囚人を預る。万延元年七月一〇日、埴生郡早野村百姓数右衛門と市原郡安津村百姓七右衛門が本繩付きのまま刑部村に泊められた。元治二年二月二一日に一夜預った囚人三人は無宿者であった。このようなときは、請書を差出す。
 「右之者共儀、今廿一日夕より明廿二日朝迄私共村方江囲い入れ御預け仰せ付けられ、慥ニ預り置き奉り候。然ル上ハ、私共差添い、不寝番人足仕り置き、大切ニ番仕(つかまつ)るべく候。万一取逃し候か、又ハ違変之儀出来(しゅったい)候ハバ、何様之御咎(とがめ)仰せ付けられ候共、其節一言之申訳け仕りまじく候。」
 囚人を泊めることは大変なことであった。不寝番を立てるには、その番人足を組合の村々へ順番に割当てる。笠森村では、番人足が定刻までに刑部村へ到着しなかったため、寄場役人に謝罪の一札をとられている。
 囚人が宿泊すると夜番をするだけでない。翌日の継立人馬またはその代銭を差出さなければならない。万延元年七月、山辺郡真亀村百姓留吉が差立てになったとき、山駕籠一挺、名札一枚、枷一挺、掛繩一房を賦課され、この代銭として一貫四百文を差出している。抵抗するおそれのない者は、差紙一枚で道案内人が連行した。「笠森村無宿之由□五郎江尋ねる儀これ有る間、道案内之ものへ召連れさせ、早々東金町へ罷り出候様取計らわるべく候。」元治二年三月二五日付け関東取締出役駒井清五郎から刑部村役人中への書付である。
 この程度の悪党ならよいが、凶悪犯が集団で出没すると村中恐れおののいた。元治二年、下総無宿音次郎外七人の者が暴れ回った。七月頃から押込強盗を働いていたこの一団は、一二月三日夜、市原郡山倉村・大坪村・郡本村で賭場荒しをやり、場金銭残らず奪って逃げた。直ちに手配が回ったが、昼は山中に打臥し、夜は所々を押歩いて容易に捕縛されない。また、九月二二日夜、房州真セ村無宿外一二、三人が矢貫村で押込強盗をはたらき房州路へ逃げ去った。関東取締出役から、皆殺しにする積もりであるが、もし打洩した者が村方へ立回ったなら、見掛け次第打殺すよう回状があったが、これは農民の手に負えるものでない。凶悪犯は召捕るのでなく打殺したのである。幕府終末期の関東農村の治安の乱れはきわまっていた。