一八世紀末、江戸幕府の内政が行詰まりかけた頃、わが国の海辺に異国船が出没するようになった。幕藩体制に痛撃を加え、武家政治の崩壊に拍車を加えたのは外国船の渡来である。寛永以来、オランダ以外の西欧諸国との交りを断っていた幕府は、諸外国と応接する術も知らなかった。
ロシヤ船が北辺に現れるようになったのは江戸中期からであるが、使節ラクスマンが松前に来て正式に通商を求めたのは、寛政四年(一七九二)一〇月三日である。驚愕した老中松平定信は、江戸の守りを固めるべく、同年一二月四日付けで次のような触を発した。
「此度、安房・上総・下総・相模・伊豆五ケ国浦付之村々御用之儀これ有り、此節より追々見分(けんぶん)仰せ付けられ候。尤(もっとも)、場所に於て地名・村高・山野の様子村役人江相尋ねる儀これ有るべく候間、相弁(わきま)え候儀ハ差支之無く申聞き候様、右国々海辺最寄之分、御料ハ御代官、私領ハ預主地頭より早々申渡すべき旨相触れらるべく候。」(15)
これは、翌寛政五年定信自ら海辺を巡見する先触であった。
「今度伊豆・相模・上総海辺御見分の為、松平越中守殿来ル十八日江戸みたかより御廻村ニ付、往返人馬滞り無く差出すべし。尤、御代官大貫治右衛門、篠山十兵衛、江川太郎左衛門より差図致すべく候間、御領、私領、寺社領共村々滞り無き様ニ相心得申すべく候もの也。」(16)
順達を受けた桜谷村では、三月一一日に請印書を差出した。首席老中自らの巡見である。海防の急務を痛感させられたのであろう。この際、江戸をかこむ房総の地が、最重点的防衛地域に指定されたのは当然である。定信は、海岸の要地に台場構築を計画したが、同年七月にわかに職を免ぜられた。
文化元年(一八〇四)九月七日、露使レザノフは軍艦二隻を率いて長崎に現れ、通商条約を結ぶことを強く迫った。幕府は、祖法を盾に引延しを図り、レザノフは使命を果たせずに翌文化二年帰国した。これより、海岸の防備は一層の急務となった。
文化七年二月、前老中白河藩主松平定信が房総海岸防備を命ぜられた。定信の命により、州ノ崎(安房郡)百首(君津郡)に台場が構築され、白子(安房郡)に遠見番所が置かれた。なお、富津に遊軍出張所が設けられた。そして、州ノ崎を勝崎と改め、陣屋を波左馬(はじま)(西岬村)に置いて、これを松ケ岡と改称した。百首の台場を平夷山、その陣屋を竹ケ岡と改め、また白子の番所を梅ケ岡と改称した。守備兵は、州崎に約五百人、竹ケ岡に約二百人置いた。その後、文政五年に州崎台場を富津に移した。(17)
この間、英船の来航がふえ、時には沿岸の島で掠奪をはたらくようなこともあった。文政八年(一八二五)遂に夷国船打払令が発せられた。「いきりすの船先年長崎ニ於て狼籍ニ及び、近来所々江小舟ニて乗寄せ、薪水食料を乞う。去年ニ至り候而ハ猥(みだ)りニ上陸致し、或ハ廻船之米穀、島方之野牛等奪取り候段追々横行之振舞(ふるまい)……中略……異国船乗寄せ候を見受け候ハバ、其所ニ有合せ候人夫を以て有無ニ及ばず一図ニ打払へ」というものであった。長崎の狼藉とは、文化五年のフェートン号事件のことである。長崎港に乱入したイギリス軍艦フェートン号は、当時ナポレオン戦争でフランスに併合されていたオランダの植民地を侵略していた。たまたまオランダ船を求めて長崎に入港し、オランダ人二人を捕えて逃げ去った。長崎奉行松平康英は、責を負って自殺した。
外国船打払令は、弱められたり強められたりしながら安政の開国まで続いた。イギリスやロシヤの開港要求は、鎖国は祖法であるという幕府のかたくなな方針で達成されなかった。しかし、新興国アメリカにとっては、北太平洋で操業する捕鯨船や東南アジアへ往復する貿易船の寄港地として、日本は重要な位置にあった。嘉永六年(一八五三)ペリーは四隻の軍艦を率いて浦賀に現れ、翌嘉永七年には軍艦を七隻に増して来航し、遂に日米和親条約を結んだ。実質的には和親でなく日本遠征であった。アメリカの開港要求は、意気込みの点で他の西欧諸国と違っていたのである。続いて英・露・仏・蘭の諸国とも同様の条約が結ばれ、安政五年(一八五八)には通商条約も締結された。
この間、攘夷か開国かで国論は沸騰し、庶民は恐怖におののいた。安政二年の触書(18)に次のようなものがある。
「諸国寺院有レ之候梵鐘之儀、本寺并古来之名器、当節時之鐘ニ相用候分相除、其余者不レ残大炮小銃可二鋳換一旨、先達而 叡意を以被二仰付一候……後略……」
太平洋戦争中の金属供出を思わせるものがある。郷土は海付きの村でなかったので、直接的には海岸防備の任はなかったが、江戸湾を囲む半島部であり、心理的影響は大きかったとは考えられる。